朝、カワウソは印刷工房に立ち寄った。
煤で黒くなった煉瓦の壁、輪転機の低いうなり、煙草の煙。今朝は、ニーチェが鞭を肩にかけて訪ねてきていた。窓辺で詩集を捲っている。
マルクス
ニーチェ
「カワウソ君、来たか」
マルクスは机に、版下を山積みにしていた。煤で汚れた手、低い声。
「ここ三日で、六種類の檄文が街に流通している」
カワウソは版下を覗き込んだ。それぞれが別の調子で、別の言葉で、しかし同じ方向を煽っている。
立ち上がれ。鎖を断ち切れ。 真の自由のためには、力が要る。 沈黙する者は、支配される者だ。 君の隣人こそが、君の自由を縛っている。 街は、燃やしてからつくり直すものだ。 革命のときは、今だ。
ニーチェが詩集を閉じた。
「俺の言葉も、編集されて使われていそうだ」
「先生のお言葉が」
「力への意志を、革命の暴力の正当化に流用している節がある。前にもあった話だ。だが、今回は規模が違う」
マルクスは煙を吐いた。
「版下の出所が、複数だ。だが、調子が揃っている。誰かが全体の流れを設計している」
「街では」
「暴力扇動派と平和的抵抗派で、住民が二分されている。前者は力で奪い返せ、後者は力では何も生まれないと、互いに檄文を投げ合っている」
ニーチェが鞭を肩にかけ直した。
「革命を語る者は、街に何人もいる。だが、全体を煽っているのは、誰だ」
マルクスはカワウソを見た。
「ルソーが、お前を訪ねてきたぞ。事務所の前で待っているはずだ」
「ルソー先生」
「皆を真に自由にしたい、と言っていた。依頼として受けるかどうかは、お前が決めろ」
カワウソはバッジを正し、印刷工房を出た。
ルソーの依頼
事務所の前で、ボロボロの上着を着た男が立っていた。背中を少し丸めて、不機嫌そうに足元を見ている。だが、目に光があった。
ルソー
「カワウソ君、お時間をいただけるか」
カワウソはルソーを事務所に招き入れた。デスクの向かいに座らせ、お茶を淹れた。
「ご依頼を伺います」
「街東で、革命の檄文が広まっている。暴力を煽る者がいる。皆が分断され、互いに憎み合い始めた」
ルソーは深く息を吐いた。
「私は社会契約論を書いた者だ。人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている。これが私の出発点だ」
「人間は自由として生まれた」
「そうだ。だが、街では今、鎖が増えている。暴力の檄文も、平和的抵抗の檄文も、結局は人々を分断する鎖だ。私はそれを断ち切りたい」
ルソーは少し沈黙した。だが、すぐに穏やかに付け加えた。
「先に申し添えておく。私自身は自由を語る者だ。鎖を増やす者ではない」
「動機がある人物は」
「革命を語る者たちだ。マキャヴェリは権力の獲得を冷徹に説いた。ホッブズは強い国家を求めた。トルストイは宗教的な平和を説いた。ガンジーは非暴力を説いた。ベンサムは最大多数の最大幸福を求めた。この五人の誰かが、自分の哲学を街全体に強要している」
「先生のご依頼は」
「真の犯人を、見つけてほしい。皆を鎖から解放したい。それが、私が依頼料を負担する理由だ」
ルソーは深く頭を下げた。
「お引き受けします」
ルソーは事務所を出ていった。背中の丸まり方は、入ってきた時と同じだった。
カワウソはメモ帳を取り出した。
容疑者
「順番に、話を聞こう」
カワウソは事務所を出た。広場では、暴力派と平和派の住民が、互いに檄文を読み上げ合っていた。
マキャヴェリの宮殿
街の中央、広場に面した古い宮殿の一室で、マキャヴェリは大きな机の前に座っていた。書状と地図が散らばり、整然と整理されている。
マキャヴェッリ
「マキャヴェリ先生」
「カワウソ君、座りたまえ」
マキャヴェリは皮肉な微笑を浮かべた。
「事件のことで来ました」
「ああ、街の革命騒ぎだな。私のところにも、檄文が回ってきている」
「先生のお名前が、容疑として挙がっています」
「私ではない」
マキャヴェリは即答した。
「私は君主論を書いた者だ。権力をいかに獲得し、維持するかを冷徹に分析した。だが、これは実用書であって、煽動書ではない」
「実用書と煽動書、どう違うのですか」
「実用書は、実態を記述する。煽動書は、感情を動員する。私は実態を冷徹に書いた。狐の狡知と獅子の力、両方が必要だと書いた。だが、それを読者がどう使うかは、私の責任ではない」
マキャヴェリは指を一本立てた。
「街の檄文を見たが、あれは煽動だ。感情で人を動かすものだ。私の書き方とは違う」
「動機は」
「ない。私は宮殿で書状を整理している。街を煽る理由はない」
「では、誰が」
「全体の流れを設計している者だ。私は個別の権力闘争を分析するが、全体を一斉に動かすようなことは、私の哲学にはない」
マキャヴェリは机の隅から、檄文の一枚を拾った。
「この調子は、統一されすぎている。複数の檄文が、同じ知性から生まれている。革命を実装できる者は、街に限られる」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。目的が手段を正当化する、と私は書いた。だが、目的が何かを定めるのは、私ではない。目的を定めた者を探したまえ」
マキャヴェリ:『君主論』を「実用書、煽動書ではない」と弁明。動機なし。「全体の流れを設計している者」「目的を定めた者を探せ」と仄めかす。
ホッブズの城館
街の北、堅牢な石造りの城館で、ホッブズは大きな書斎にいた。机に巨大な本が開かれ、ページにリヴァイアサンと書かれている。
ホッブズ
「ホッブズ先生」
「カワウソ君か。来たまえ」
ホッブズは穏やかな低い声で迎えた。整った髪、整った服装、落ち着いた所作。
「事件のことで来ました」
「ああ、街の混乱だな。自然状態が露出しつつある」
「自然状態」
「人間は本来、万人の万人に対する闘争の中にある。社会契約で主権者に権力を委ねることで、ようやく秩序が保たれる。今、街では主権者の権威が揺らぎ、自然状態が顔を出している」
ホッブズは『リヴァイアサン』を閉じた。
「失礼を承知でお伺いしますが、先生のご関与は」
「私ではない」
ホッブズは即答した。
「私は強い国家を説く者だ。自然状態の暴力から逃れるための、主権者の絶対性を説いた。革命は、私の哲学に正反対だ。革命は、主権者を倒すことだからだ」
「先生は、革命を否定される」
「人間が自然状態に戻ることは、最悪の事態だ。互いに殺し合うことになる。だから、多少の不正義があっても、主権者の下にとどまるべきだ。これが私の論だ」
「動機は」
「ない。私は革命を煽る理由がない」
「では、誰が」
「自然状態を理想化する者だろう。私は自然状態を地獄として描いた。だが、自然状態を人間本来の姿として美化する者がいるなら、革命を煽る動機がある」
ホッブズはカワウソを見た。
「そういう哲学を持っている者は、街では限られる」
カワウソはペンを止めた。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。自由は、平和の上にしか成立しない。平和を壊して自由を求める者は、自由ではなく混乱を生む」
ホッブズ:強い国家を説く。「自然状態を美化する者が革命の動機を持つ」と仄めかす。動機なし。
トルストイの農場
街の西、広い麦畑の真ん中に、簡素な農家があった。トルストイは農夫の服を着て、麦の束を運んでいた。
トルストイ
「トルストイ先生」
「ようこそ、カワウソさん。一緒に運ぶかい」
「いえ、調査で参りました」
トルストイは束を地面に置き、汗を拭った。深い目、白い髭、土に汚れた手。
「街の革命騒ぎだろう」
「はい」
「ひとつだけ確認させてください。事件への関与は」
「私ではない」
トルストイは静かに答えた。
「私は無抵抗主義を説く者だ。悪に暴力で抵抗してはならない。悪は、暴力ではなく、愛で消す」
「無抵抗、ですか」
「キリストの山上の説教にもある。右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ、と。暴力は暴力を呼ぶ。だから、暴力を返さないことが、根本的な解決だ」
トルストイは束を担ぎ直した。
「革命は、暴力の最たるものだ。私は革命を否定する。街の暴力派の檄文も、平和派の檄文も、両方とも怪しいと思っている」
「両方とも、ですか」
「平和派も、抵抗の構造で動いている。私の無抵抗とは違う。抵抗しないことが私の道だ。抵抗することは、相手の土俵に乗ることだ」
「動機は」
「ない。私は農場で麦を運んでいる。それで足りる」
「では、誰が」
「革命を理想化する者だろう。革命を、鎖を断つ美しい行為として描いている者がいるなら、それは私の宗教観とは正反対だ」
トルストイは農場を見渡した。
「自由は、農場の労働の中にある。革命の檄文の中には、ない」
「ありがとうございました」
「カワウソさん、最後に一つ。地に足をつけて生きよ。檄文に煽られるな」
トルストイ:無抵抗主義。「暴力派も平和派も両方怪しい」「革命を理想化する者が動機を持つ」。動機なし。
ベンサムの計算所
街の南、広場の一角に、ベンサムは奇妙な装置を組み立てていた。歯車のついた巨大な計算機。住民が次々とその前に並んで、何かを記入している。
ベンサム
「ベンサム先生」
「カワウソ君、また会えたな。手伝ってくれ。このフェリシティ・カルキュラスの調整を」
「以前にも、街でこの計算機を」
「ああ、以前にも動かしていた。今回はもっと精密にした」
ベンサムは皮肉な笑みを浮かべた。
「事件のことで来ました」
「街の革命騒ぎだろう。私の計算機で、革命の幸福度を試算している」
「革命の幸福度、ですか」
「ああ。革命を起こした場合の総幸福と、起こさない場合の総幸福を、それぞれ計算する。それで判定する」
「形式的な確認です。事件への関与は」
「私ではない」
ベンサムは即答した。
「私は功利主義者だ。最大多数の最大幸福が私の原理だ。だから、革命の幸福度を計算で示すことに専念している。煽る理由はない」
「先生の計算機は、革命を支持していますか、否定していますか」
「条件次第だ。革命の暴力で死ぬ人数が、革命後に救われる人数を上回れば、否定する。下回れば、支持する。情緒で判断しない」
「革命を情緒で煽る檄文は、先生のお考えに反するわけですね」
「そうだ。私の功利主義は、冷徹な計算だ。情緒の煽動ではない」
「動機は」
「ない。私は計算機を動かしている。情緒で動く者を軽蔑している」
「では、誰が」
「革命を情緒で語る者だろう。私の冷徹な計算とは正反対の哲学を持つ者が、街を煽っている」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。情緒は嘘をつく。数だけが嘘をつかない」
ベンサム:功利主義者、計算機で革命の幸福度を試算中。動機なし。「革命を情緒で煽る者」「私と正反対の哲学」と仄めかす。
ガンジーの庵
街外れの小さな庵で、ガンジーは床に座っていた。糸車を回し、糸を紡いでいる。簡素な白い布、穏やかな目。
ガンディー
「ガンジー先生」
「ようこそ、カワウソさん」
ガンジーは糸車を止め、カワウソを招いた。床に座らされ、お茶を出された。お茶はぬるめで、優しかった。
「事件のことで来ました」
「街の革命騒ぎだね。私のところにも、檄文が回ってきている」
「率直にお伺いします。事件への関与は」
「私ではない」
ガンジーは静かに答えた。
「私はサティヤーグラハ(心理把握)を説く者だ。真理に根を持つ非暴力だ。これは、暴力で抗わないことではない。真理の力で抗うことだ」
「非暴力で抗う」
「そうだ。圧政者の心を変えることが、本当の解放だ。暴力で倒しても、新しい圧政を生むだけだ。だから、非暴力で歩み続ける。それが私の道だ」
ガンジーは糸車を再び回し始めた。
「街の暴力派は、私の道を理解していない。だが、平和派の檄文も、抵抗の構造で動いている。サティヤーグラハは、抵抗ではなく、真理に立つことだ」
「動機は」
「ない。私は糸を紡いでいる。自分の生計を、自分の手で立てる。それが、私の独立だ」
ガンジーは糸を見つめた。
「自分の手で糸を紡ぐことは、他者から奪わないことだ。革命の檄文は、奪うことを煽っている。私の道とは違う」
「では、誰が」
「真の自由を語る者だろう。だが、その語り方が、真理から離れている」
ガンジーは静かに語った。
「真の自由は、他者を従わせる自由ではない。他者と共に歩く自由だ。真の自由を強要するのは、矛盾だ」
カワウソはペンを止めた。
「ありがとうございました」
「カワウソさん、最後に一つ。自分が見たい変化に、自分自身がなれ。煽るより歩くことだ」
ガンジー:サティヤーグラハ、糸を紡ぐ。「真の自由を語る者だが、語り方が真理から離れている」と仄めかす。動機なし。
印刷工房に戻って
夕方、カワウソは印刷工房に戻った。マルクスはまだ輪転機の前にいた。
「どうだった」
カワウソはメモ帳を広げた。
マキャヴェリ:『君主論』は実用書、煽動書ではない。「全体の流れを設計している者」「目的を定めた者」を探せ、と。
ホッブズ:強い国家を説く、革命を否定。「自然状態を美化する者が動機を持つ」と仄めかす。
トルストイ:無抵抗主義。「暴力派も平和派も両方怪しい」。
ベンサム:功利主義の計算機で革命の幸福度を試算中。「革命を情緒で煽る者」を疑う。
ガンジー:サティヤーグラハで糸を紡ぐ。「真の自由を語る者だが、語り方が真理から離れている」。
マルクスは煙草を吸いながら、覗き込んだ。
「全員が、別の犯人を仄めかしている」
「はい」
「だが、仄めかしの方向を整理すると」
マルクスは煙を吐いた。
「マキャヴェリは「全体の流れを設計」。ホッブズは「自然状態を美化する者」。トルストイは「革命を理想化する者」。ベンサムは「情緒で煽る者」。ガンジーは「真の自由を語るが、真理から離れている者」」
カワウソは天井を見上げた。
「自然状態を美化し、革命を理想化し、情緒で煽り、真の自由を語る者。それから、全体の流れを設計できる知性」
「街にいる、誰だ」
カワウソは仲間達の名を浮かべた。
「ヘーゲル先生は弁証法で運動を見ますが、自然状態の美化はされません。サルトル先生の自由は、個別の選択です。ソクラテス先生は問いますが、煽りません。カント先生は普遍化を吟味する方で、情緒では動かれない」
「ふむ」
「ニーチェ先生は革命寄りですが、個人の超克を説かれる。全体の意志は語られない」
「孔子先生、ガリレオ先生、道元禅師、ガンジー先生も違います。誰も、自然状態の美化と革命の理想化を同時に語りません」
カワウソはペンを止めた。
「自然状態を美化し、革命を理想化し、情緒で煽り、真の自由を語る、しかも全体の流れを設計できる。この全部を持つ哲学者は」
マルクスは煙草を吸い込んだ。
「街にいる」
「ルソー先生、です」
マルクスは煙を止めた。
「ご本人」
「先生は、『社会契約論』で自然状態を人間本来の自由な姿として描かれました。革命を鎖を断つ美しい行為として語られた。真の自由を、何度もお口にされた。情緒的な響きで」
「依頼者がか」
「マキャヴェリ先生がおっしゃった「全体の流れを設計できる者」。ルソー先生は哲学者の中で、最も人民全体の意志を語る方です」
マルクスは灰を落とした。
「依頼者が真犯人、というのは、ある」
「先生のお言葉、思い出しました。俺は版下を集めている、と」
「ああ」
「街の檄文の出所、見せていただけますか」
マルクスは机の引き出しを開けた。版下の束を取り出し、カワウソの前に広げた。
「この六種類だ。版下の活字の組み方を見ろ」
カワウソは見比べた。六種類の檄文、それぞれ別の調子で書かれている。だが、特定の活字の癖が、すべて同じだった。同じ印刷所で組まれている。
「そして、その印刷所は」
「ジュネーヴ街の細い路地にある、小さな印刷所だ。所有者は、ルソー先生だ」
カワウソはバッジを正した。
「会いに行ってきます」
「行ってこい」
再びルソーのもとへ
事務所に戻ると、ルソーがすでに座っていた。お茶も淹れずに、ただ待っていた。
「カワウソ君、戻ったか」
「先生、お話があります」
カワウソは席に座った。反問の槍を構えた。
「先生にお聞きします。街で流通している六種類の檄文、すべて先生の印刷所で刷られています」
ルソーは少し沈黙した。だが、すぐに穏やかに答えた。
「気づいたのか」
「先生、認められますか」
「ああ。認める」
ルソーは深く息を吐いた。
「私が刷った。だが、私には理由がある」
「お聞かせください」
「私は『社会契約論』に書いた。人間は自由なものとして生まれた、しかしいたるところで鎖につながれている、と。鎖を断ち切らねば、真の自由は来ない。だが、街の住民は鎖に慣れてしまっている。怒りを覚えていない」
「だから、檄文を流された」
「そうだ。怒りを呼び起こさねば、革命は起きない。革命が起きねば、鎖は断ち切れない。だから、私は六種類の檄文で、あらゆる方向から怒りを煽った。暴力派にも、平和派にも。互いに対立させて、怒りの熱量を最大化した」
「先生」
「私は皆を真に自由にしたい。だから、一般意志を実現するために、個別の意志を怒りで揃える必要があった」
カワウソは普遍の盾を構えた。
「先生、自由になるよう強制される、という言葉が、先生の『社会契約論』にはあります」
「書いた」
「自由を、強制で実現する。これは、矛盾ではありませんか」
「矛盾だ。私はそれを承知の上で書いた。真の自由は、矛盾の中にある。個別の意志は鎖に慣れている。一般意志は真の自由を求めている。両者を一致させるには、強制しか手段がない」
ルソーは初めて目を上げた。穏やかだが、深い目だった。
「怒りを煽ることは、強制の一形態だ」
「先生、すべての哲学者が、自分の信じる自由のために、住民を怒りで強制したら、世界はどうなりますか」
「世界中で、革命が連続する」
「先生のされたことは、普遍化可能ですか」
「不可能だ」
ルソーは俯いた。
「私は真の自由を求めた。だが、強制で得られた自由は、自由ではない。それは、新しい鎖だ」
カワウソは止揚の鏡を構えた。
「先生、鎖を増やすか、断ち切るか、を決めるのは、住民自身であるべきです。先生が代わりに決めることは、先生が新しい主権者になることです」
「カワウソ君、痛い」
ルソーは深く息を吐いた。
「私は、人民全体の意志を語ってきた。だが、私の語る人民全体の意志は、私が想像した意志だった。実際の住民の意志ではない」
「先生」
「私は、住民を信じていなかった。住民が自分で鎖に気づき、自分で断ち切ることを、待てなかった。だから、怒りで強制した」
「先生」
「これは、私の哲学の根本的な失敗だ。自由の名で、強制した。私は、私自身が生んだ鎖で、住民を縛った」
ルソーは深く頭を下げた。
「申告書、書こう。私は、真の犯人だ」
「先生」
「カワウソ君、ガンジーを訪ねたまえ。私が真の自由を見失っていた中で、彼は真理に立っていた。彼に、君を導いてもらえ」
ルソーは筆を取った。窓の外、夕日が、街東の麦畑を染めていた。
ガンジーの庵、再び
夜、カワウソはガンジーの庵を訪ねた。ガンジーはまだ糸を紡いでいた。月明かりの下で、糸が光っていた。
「カワウソさん、戻られたか」
「ガンジー先生、ルソー先生が自白されました」
「ふむ」
ガンジーは糸車を止めた。
「ルソーさんは、自由の理想に憑かれて、住民の現実を見失った。理想の自由で、現実の住民を強制した」
「先生」
「カワウソさん、君に非暴力の歩を授けよう」
ガンジーは庵の隅から、簡素な草履を取り出した。素朴で、磨り減った跡がある。
「非暴力の歩だ。強制せず、ただ歩くための草履だ。理想を追うあまり、足元の住民を踏まないための道具だ」
カワウソは草履を受け取った。手に取ると、軽かった。だが、重みがあった。
「ありがとうございます」
「私は街で、真理に立ち、糸を紡ぐことを取り戻したい。君と歩めば、それができそうだ」
ガンジーは穏やかに笑った。
「自分が見たい変化に、自分自身がなれ。それが私の道だ」
印刷工房・夜
夜遅く、カワウソは印刷工房に戻った。マルクスはまだ輪転機の前にいた。
「どうだった」
「ルソー先生、自白されました。非暴力の歩、頂きました」
「ガンジーか。よい仲間だ。自分の手で糸を紡ぐ男は、自分の手で労働する男に近い」
マルクスは煙草を吸いながら、版下を整理していた。
「マルクス先生、革命の檄文、どうされますか」
「全部、回収する。版下も、刷られた紙も、もう街には流通させない」
「ありがとうございました」
「観念の自由は、観念の檻に閉じ込められる。ルソーは、自分の理想で、自分を閉じ込めた男だ」
マルクスはふと、煙を吐いた。
「革命の檄文は、俺の印刷工房を経由していた。版下は俺が把握していた。だから、出所もすぐに割れた」
「先生は、なぜすぐに教えてくださらなかったのですか」
「お前が自分で辿り着くのを、待っていた。それが、お前の流儀だ」
カワウソは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「明日もまた、にぎやかな一日になる」
マルクスはまた版下に向き直った。煙草の煙が、ゆっくり立ち上っていた。
エピローグ
事務所に戻ると、ヘーゲル、サルトル、ソクラテス、カント、ニーチェ、孔子、ガリレオ、道元、そしてマルクスの九人がデスクを囲んでいた。
「カワウソ君、解決したか」
「はい。仲間がもう一人増えました」
ガンジーが、戸口から草履を脱いで入ってきた。
「皆さん、はじめまして」
ヘーゲルが立ち上がった。
「ガンジー先生か。真理に立ち、歩く方だな。我らとは違う角度の哲学だ」
「ええ。皆さんと、これから歩めれば」
カントが時計を見た。
「散歩の後の、糸紡ぎ。よい夜だ」
カワウソはメモ帳を広げた。
仲間:10人。 武器:10つ(止揚の鏡、自由の刃、反問の槍、普遍の盾、永劫の輪、実践の鎚、仁の杯、観測の振り子、只管の座、非暴力の歩)。 学んだ思想:弁証法、実存主義、問答法、定言命法、永劫回帰、唯物史観、儒教の仁、近代科学、禅の只管、サティヤーグラハ。
カワウソは月を見た。街東で、住民が檄文を捨て、ようやく自分の意志で帰路についていた。暴力派も、平和派も、互いに見つめ直し始めていた。
街の南、印刷工房の窓に、まだ灯りがともっていた。
(第九話 了)