専門編 · 哲学の主要分野 · 第88章
歴史哲学:歴史に意味はあるか
1922年、ナポリの哲学者ベネデット・クローチェは「すべての歴史は現代史である」と宣言しました。歴史家がペルシア戦争を書くとき、彼は2500年前の出来事を書いているのではなく、現在の問題関心がペルシアに投影された歴史を書いている、と。歴史に意味と方向はあるのか。あるとすれば誰が語る資格を持つのか。本章ではこの古典的問いを辿ります。
循環史観から進歩史観へ
古代ギリシア・ローマ世界は歴史を循環として捉えていました。ポリュビオスの政体循環論、エウリピデスの悲劇的歴史観。文明は栄え、堕落し、滅び、また始まる。プラトンの政体退化論もこの循環図式の変奏です。歴史に始点と終点を見る発想は、ユダヤ・キリスト教の到来とともに導入されました。
5世紀のアウグスティヌス『神の国』は、歴史を神の国と地の国の闘争として描き、最後の審判という終末論的目標を据えます。これが「歴史は方向性を持つ」という発想の最初の哲学的定式化でした。18世紀ナポリのジャンバッティスタ・ヴィーコは『新しい学』で、歴史を諸民族が「神の時代・英雄の時代・人間の時代」を辿る過程と捉え、近代歴史哲学の道を開きます。
進歩主義とその懐疑 — ヘルダーからニーチェへ
18世紀末のヘルダーは、歴史を諸民族の精神(Volksgeist)の発展として描きました。19世紀のヘーゲルとマルクスは、これを「自由の意識の進歩」「生産様式の発展」として体系化します。20世紀には進歩主義の延長線上にコント、スペンサー、デュルケームらの実証主義的歴史社会学が並びました。
これに対する最も鋭い懐疑が、19世紀後半のニーチェ『反時代的考察』第二篇「歴史の利と害」でした。歴史への過剰な意識は、現在を生きる力を麻痺させる。記念碑的歴史・骨董的歴史・批判的歴史のいずれも、行き過ぎれば毒となります。歴史を「進歩の物語」として書く態度そのものが、彼にとって近代の病理だったのです。
コリングウッドと「歴史的想像力」
20世紀イギリスの歴史哲学者R・G・コリングウッドは、別の方向を示しました。歴史家の仕事は、過去の行為者の思考を「再演じる(re-enact)」ことだ、と。シーザーがルビコン河を渡った瞬間、彼が考えたであろうことを、現代の歴史家が自分の精神のなかで再現する。これは「歴史的想像力」と呼ばれる方法でした。
コリングウッドは『歴史の理念』で、歴史を自然科学から区別する根拠を示しました。自然科学は法則の発見を目指すが、歴史は固有の出来事の意味を問う。これはディルタイの「了解(Verstehen)」、ガダマーの解釈学、エルヴィン・パノフスキーの図像学にも繋がる、20世紀の解釈学的伝統の核心の一つです。
ホロコースト後の歴史哲学
1945年以後の歴史哲学は、ホロコーストという出来事に応答せざるをえなくなります。アドルノの「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮だ」、ベンヤミンの『歴史の概念について』が指し示した「敗者の側から書かれる歴史」。進歩史観への信頼は決定的に揺らぎ、災厄を中心に据える「破滅の歴史哲学」が台頭しました。
1980年代、ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』は、歴史記述が文学的物語の構造(ロマンス、悲劇、喜劇、風刺)に従っていることを示し、歴史の客観性を根本から問い直します。フーコーの系譜学、ポストコロニアル史学、ジェンダー史、環境史。歴史は誰の視点から、何を語らないままに書かれてきたのか。21世紀の歴史哲学はこの問いを引き継いでいます。次章はテーマを切り替え、20世紀フランスから始まる思想運動の数々を辿る第5セクションに進みます。
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