朝、カワウソは印刷工房に立ち寄った。
煤で黒くなった煉瓦の壁、輪転機の低いうなり、煙草の煙。今朝は、サルトルが煙草を吸いに来ていた。窓辺で煙を吐きながら、新聞をめくっている。 そこへ、カントが息を切らせて入ってきた。
サルトル
マルクス
カント
「皆さん」
「カント先生、いつもよりお早いですね」
「いや、早すぎるのだ」
カントは懐中時計を取り出し、首を傾げた。
「私は毎朝、七時三十分にここを通る。だが、今朝は七時十八分にもう着いてしまった。十二分早い」
「先生が早く起きられたとか」
「起きていない。散歩の歩数も、いつもの七百三十二歩だ。だが、到着が早い」
カントは懐中時計を額に当てた。
「私の体内時計が狂っている。感性の形式に揺らぎが及んでいる。これは、私の哲学が崩れる事態だ」
マルクスが煙草を消した。
「カント先生、お一人ではないかもしれぬ。妙な苦情が三件、入っている。時計屋だ」
マルクスは新聞を顎で示した。
「街の北の時計屋、東の時計屋、南の時計屋。同じ日に、同じ分数だけ、時計が止まったらしい。互いに連絡を取り合ったわけではない」
「十二分か」
「ぴったり十二分だ」
サルトルが煙を吐いた。
「時間が、選ばれていない」
「と、言いますと」
サルトルはカワウソを見た。
「時間とは、人が選ぶものだ。今この瞬間に何をするか、を選ぶ。だが、皆が同時に止まったなら、選択そのものが消えたということだ」
カントは深く息を吐いた。
「私の体内時計まで、揺さぶられている。感性の形式そのものを疑わねばならぬ事態だ」
マルクスが版下を畳んだ。
「ガリレオだ。彼は観測の異常を一番早く察知する。すでに動いているはずだ」
「ありがとうございます」
カワウソはバッジを正し、印刷工房を出た。カントは懐中時計を見つめたまま、輪転機の前で動かなかった。
街の天文台・ガリレオ
街の北、丘の上に小さな天文台があった。その前で、白髪の老人が望遠鏡を抱え、振り子時計を眺めていた。額に汗が滲んでいる。
ガリレオ
「カワウソ君か。来てくれて、助かる」
ガリレオは振り子を指差した。
「見たまえ。振り子の周期が、揃わない」
カワウソは覗き込んだ。同じ長さの振り子が三つ並んでいる。だが、それぞれの揺れる速さが微妙にずれている。
「これは、あってはならない現象だ。振り子の周期は、長さだけで決まる。私が観察し、確かめた事実だ。それが、今、崩れている」
「街全体で、ですか」
「広場の時計、北通りの時計、海辺の時計。観測してきた限り、すべて狂っている」
「動機がある人物は」
「動機ではない。理論で動かしている者がいる。物理法則そのものを書き換えるには、理論で世界を記述しようとする者でなければ無理だ」
ガリレオは望遠鏡を脇に置いた。
「容疑者は限られる。世界を理論で書こうとした者たちだ」
「具体的には」
「近代哲学者たちだ。フランシス・ベーコンは実験と観察を説いた。ロックは感覚から知識が生まれると言った。バークリーは存在するとは知覚されることと説いた。ライプニッツは世界はモナドから成ると論じた。そして、ニュートンは絶対空間と絶対時間で世界を支配する数式を立てた」
ガリレオは指を一本ずつ立てて数えた。
「この五人の誰かが、自分の理論を世界に強要しているはずだ」
「先生ご自身は」
「私は観察者だ。世界を見る。書き換える側ではない。見て、確かめるのが私の仕事だ」
ガリレオは振り子に手を伸ばし、止めた。
「事件を解いてくれ。私の振り子は、また揺れたい。自然の法則に従って」
「お引き受けします」
カワウソはメモ帳を広げた。
容疑者
「順番に、話を聞こう」
カワウソは天文台を出た。
ベーコンの実験室
街の東、煉瓦造りの大きな部屋の中で、フランシス・ベーコンは試験管を並べていた。様々な液体、粉、金属片。机の上には実験記録のノートが積まれている。
ベーコン
「ベーコン先生」
「ようこそ、カワウソ君。いま、鉄が水に沈むかどうかを実験している。当たり前のことだが、当たり前を確かめるのが私の哲学だ」
ベーコンは鉄片を水に落とした。沈んだ。
「事件のことで来ました」
「物理が揺らいでいるという話か。私のところにも、観察結果が再現しないという困った報告が、若手の弟子から届いている」
「先生のお名前が、容疑として挙がっています」
「私ではない」
ベーコンは即答した。
「私の哲学は帰納法だ。観察と実験から自然の法則を引き出す。法則を作るのではなく、見つけるのが私のやり方だ。世界を書き換えるのは、私の哲学に反する」
「動機は」
「ない。私は四つの偶像(種族・洞窟・市場・劇場)こそが人間の認識を歪める偏見だと指摘してきた者だ。私自身が世界を歪めるなら、自分の説への自己矛盾だ」
ベーコンはノートを開いた。
「先生のお考えでは、誰が」
「理論を先に立てる者だ。私は事実から理論へ進む。だが、理論から事実へ進む者がいる。理論が美しすぎると、事実を理論に合わせて切り捨てることが起きる」
「具体的には」
「ニュートンは、私の方法を極端まで進めた。観察から法則へ進むのは正しい。だが彼は、法則の側に絶対性を与えた。絶対空間、絶対時間。これは、観察できないものだ」
ベーコンは試験管を置いた。
「観察できないものを前提にして世界を記述するのは、私の帰納法を超えている。私の方法から離れていく」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。事実は、理論より重い。理論で事実を裁くな」
ベーコン:実験室で観察。帰納法を信じる。動機なし。ニュートンの絶対性に懐疑。
ロックの書斎
ロックは、街の中央にある質素な書斎で、机に向かっていた。鵞ペンを持ち、ゆっくりと書いている。
ロック
「カワウソ君か。お入り」
ロックは穏やかに迎えた。机の上には『人間知性論』と書かれた原稿の束。
「先生、事件のことで」
「ふむ。物理が揺らいでいるという話だな」
「失礼を承知でお伺いしますが、先生のご関与は」
「私ではない」
ロックは静かに答えた。
「私の哲学は経験論だ。人の心は白紙から始まり、感覚を通じて経験を積むことで知識が生まれる。世界を書き換えることは、私の哲学に反する」
「動機は」
「ない。私は経験を尊重する者だ。世界の側を捻じ曲げて経験を歪めれば、私の哲学そのものが崩れる」
ロックはペンを置いた。
「だが、私はバークリー先生については、少し心配している」
「と、言いますと」
「彼は、私の経験論を極端まで推し進めた男だ。私は物そのものは経験の外にあると考える。だが彼は、経験されるものだけが存在すると説く。観察されないものは、ない、というのだ。これは、世界の存在を観察者に依存させる危うい立場だ」
「では、バークリー先生が」
「断定はせぬ。だが、観察されないと物が消える世界を作ろうとしているなら、彼の哲学と一致する」
カワウソはメモを取った。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。経験は、世界の側のものだ。世界の側を、観察者の側に押し込むな」
ロック:経験論。白紙の心、感覚から知識。動機なし。バークリーを名指し。
バークリーの祭壇
バークリーは、街の南の小さな礼拝堂で、祈りを捧げていた。聖職者の服を着ている。蝋燭の灯りが揺れている。
バークリー
「カワウソ君、ようこそ」
バークリーは祈りを終え、振り返った。穏やかな微笑、深い目。
「事件のことで来ました」
「ああ、知っている」
「ひとつだけ確認させてください。事件への関与は」
「私ではない」
バークリーは静かに答えた。
「私の哲学は「esse est percipi」だ。存在するとは知覚されること。これは、世界が観察者に依存するということではない。神が常に観察しているから、世界は常に存在するのだ」
「神が、ですか」
「そうだ。私の哲学は神中心だ。神が万物を知覚しているから、誰も見ていないときでも世界は存在する。観察者が消えても、神の知覚で世界は保たれる」
バークリーは蝋燭を見つめた。
「だが、街では今、物が消えるような現象が起きている、と聞いた。これは、私の哲学への中傷だ」
「中傷、ですか」
「私の哲学は世界を消さない。世界を神の知覚に委ねることで保つ哲学だ。だが、誰かが観察されないと物が消えると曲解して街に流通させているなら、それは私の哲学を歪めて使っている」
「動機は」
「ない。私は祭壇にいる。神の知覚を語り続けている」
バークリーは深く息を吐いた。
「私を疑ってくれるのは構わぬ。だが、私の哲学を神なしの観念論として使っている者がいるなら、それは私の名前を盗んでいる」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。観察者は神を含む。私の哲学を、神なしで使うな」
バークリー:神中心の観念論。esse est percipi。動機なし。哲学を歪曲した者がいる、と訴える。
ライプニッツの計算室
ライプニッツは、街の西の塔で、巨大な計算機を組み立てていた。歯車、レバー、数字盤。
ライプニッツ
「カワウソ君、ご覧の通り、忙しい」
「事件のことで来ました」
「物理の揺らぎだろう。私もメモを取っている」
ライプニッツは机の上のメモを示した。揺らぎの記録、時刻別、地点別が、整然と並んでいる。
「形式的な確認です。事件への関与は」
「私ではない」
ライプニッツは即答した。
「私の哲学はモナド論だ。世界は無数のモナド(個別の精神的実体)から成り、予定調和で動いている。世界の調和は、神が事前に設定したものだ。書き換えることは、神への侵犯だ」
「予定調和、ですか」
「神は世界を最善の配置で創った。各モナドは、互いに直接影響を及ぼさず、ただ予定された通りに動く。これが私の体系だ」
ライプニッツは計算機の歯車を回した。
「動機は」
「ない。私は世界の調和を讃える者だ。揺らぎを起こすなど、私の哲学の正反対だ」
「では、誰が」
「世界を調和より単純にしたい者だろう。私の世界は無数のモナドの調和だ。これは複雑だ。だが、世界を一つの法則で支配したい者がいるなら、その単純化が暴走する可能性はある」
「具体的には」
「ニュートンだ。彼と私は、微積分の発明をめぐって長く論争してきた。彼は絶対空間と絶対時間で世界を支配する。私は関係的な空間と時間を主張する。立場が違う」
ライプニッツは計算機を止めた。
「彼の哲学が暴走すれば、観察できない絶対性が世界を硬直させる。揺らぎは、そのひずみかもしれぬ」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。この世界は、考えうる全ての世界のうち最善である。最善でない揺らぎは、人間の介入だ」
ライプニッツ:モナド論、予定調和。世界の調和を讃える。動機なし。ニュートンを名指し。
ニュートンの研究室
ニュートンは、街の最も高い塔の最上階に、研究室を構えていた。窓から街全体が見渡せる。机の上には『自然哲学の数学的諸原理』の原稿、リンゴ、振り子、プリズム。
ニュートン
「カワウソ君か」
ニュートンは振り返った。鋭い目、少し痩せた体、整った髪。
「事件のことで来ました」
「ふむ」
ニュートンは机の前に立ち、リンゴを掌で転がした。
「物理が揺らいでいる、という話だろう。私のところにも、観察報告が届いている」
「率直にお伺いします。事件への関与は」
「私ではない」
ニュートンは即答した。
「私は自然の法則を発見した者だ。運動の三法則、万有引力、絶対空間と絶対時間。これらは私が創ったものではない。自然が示してくれたものを、私が数式に書き取っただけだ」
ニュートンはリンゴを机に置いた。
「世界を書き換える、などという発想は、私にはない」
「動機は」
「ない。私は法則を確かめるのが好きなだけだ」
カワウソはメモを取りながら、机の上を見た。原稿、リンゴ、振り子、プリズム。だが、もう一つ目を引いたものがあった。
街全体の地図。地図の上には、碁盤の目状に座標が引かれ、時刻が秒単位で書き込まれていた。
「先生、これは」
「街の運動を座標で記述しているだけだ。絶対空間と絶対時間の枠で、街全体を測量している」
「測量、ですか」
「観察だ」
ニュートンは穏やかに答えた。だが、その目には自信が満ちていた。
「先生の地図には、揺らぎが記録されていますか」
ニュートンは少し沈黙した。
「揺らぎは、測量の誤差だろう」
「測量の誤差、ですか」
「自然の法則は揺るがない。揺らぎがあるとすれば、それは観測する側の問題だ」
カワウソはペンを止めた。
ニュートン先生は、揺らぎを、揺らぎとして記録しなかった。法則の絶対性を守るために、揺らぎを誤差として処理した。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。自然は数学の言葉で書かれている。数式に乗らないものは、自然の真の姿ではない」
ニュートン:絶対空間・絶対時間で街を測量。揺らぎを「誤差」として処理。動機なし、と言うが目に確信。
印刷工房に戻って
夕方、カワウソは印刷工房に戻った。マルクスはまだ輪転機の前にいた。
「どうだった」
「五人とも動機がない、と。ですが」
カワウソはメモを広げた。
ベーコン:帰納法。観察から法則へ。動機なし。ニュートンを「絶対性が極端」と評する。
ロック:経験論。白紙の心。動機なし。バークリーを「観察されないと物が消える」立場と評する。
バークリー:神中心の観念論。神の知覚で世界は保たれる。動機なし。哲学を歪めた者を批判。
ライプニッツ:モナド論、予定調和。動機なし。ニュートンを「絶対性が世界を硬直化」と評する。
ニュートン:絶対空間・絶対時間。揺らぎを誤差として処理。動機なし、と。
マルクスは煙草を吸いながら覗き込んだ。
「観察されないと物が消える、というのはバークリーらしい話だが、本人は「神の知覚」で否定している」
「はい。バークリー先生のお話は、自分の哲学を歪曲した者がいる、というものでした」
「歪曲、か」
マルクスは煙を吐いた。
「では、誰が歪曲したか」
カワウソは天井を見上げた。
「ロック先生は『観察されないと物が消える、というのはバークリーの危うい立場だ』と語られました。ロック先生のなかで、バークリー先生の哲学は、神なしで読まれている」
「ロックの誤読が、街で広まっているのか」
「いえ、ロック先生のお話はバークリー先生への心配でした。ニュートン先生への批判は、別の方向から出ています。ベーコン先生はニュートンが絶対性を行き過ぎたと批判し、ライプニッツ先生もニュートンの絶対性が世界を硬直化させると批判する」
「ニュートンへの批判は、ベーコンとライプニッツから出ている」
カワウソはペンを置いた。
「マルクス先生、揺らぎは、街の住民から見れば異変です。ですが、ニュートン先生は揺らぎを誤差として処理されています。自分の絶対性の体系から外れたものを、ないことにしている」
「観測されないと物が消えるは、バークリーではなく、ニュートンのほうが当てはまる」
マルクスは煙草の灰を落とした。
「揺らぎを誤差として記録しないことで、揺らぎは存在しなくなる。世界は絶対性に整列する。だが、住民が体感する揺らぎは、現実のものだ」
「下部構造が壊れている、のは」
「ニュートンが、自分の数式に乗らないものをないことにしているからだ。街の物理は、彼の理論に強制的に整列させられている。整列しきれない部分が、揺らぎとして噴き出している」
カワウソはバッジを正した。
「もう一度、ニュートン先生に会ってきます」
「観測の振り子を、ガリレオ先生に借りていけ」
「あとで」
カワウソは立ち上がった。
再びニュートンの塔
ニュートンは、まだ研究室で地図と向き合っていた。
「カワウソ君か」
「先生、お聞きしたいことがあります」
カワウソは反問の槍を構えた。
「先生にお聞きします。揺らぎは誤差だと、先生はおっしゃいました。ですが、街中で同時に同じ揺らぎが観測されていること、これは誤差で説明できますか」
「同時というのは、観測の同時性だ。観測する側の誤りも、同時に発生し得る」
「では、全ての時計屋が、互いに連絡を取り合わずに、同じ分数だけ時計が止まったのは、なぜですか」
ニュートンはリンゴを置いた。
「それは、説明がつかない」
「先生の絶対時間の枠から見れば、それは奇妙な偶然でしょう。ですが、先生の枠を一度外してみれば、揺らぎは現実として記述できるはずです」
ニュートンは振り子を見た。それは、わずかに自然な周期から外れて揺れていた。
「私は、自然を数式で記述してきた」
「ええ」
「数式に乗らないものは、ないことにしてきた」
「先生」
カワウソは止揚の鏡を構えた。
「先生のお説は、数式に乗る現象を見事に記述します。それは事実です。ですが、数式に乗らない現象は、先生の数式の外にあるだけで、現実から消えるわけではありません」
ニュートンは深く息を吐いた。
「それは、認めねばならぬ」
「先生の枠を世界そのものだと信じれば、枠の外はないことになる。ですが、現実は枠より広い」
ニュートンは初めて、地図を脇に押しやった。
「私は、世界を枠で囲んできた。枠の中を精密に描く力に集中してきた。だが、枠の外を考えなかった」
カワウソは普遍の盾を構えた。
「先生、すべての理論家が、自分の枠で世界を囲み、枠の外をないことにしたら、世界はどうなりますか」
「世界は、枠の数だけ分裂する」
「先生のされたことは、普遍化可能ですか」
「不可能だ」
ニュートンは静かに息を吐いた。
「私は、自然は数学の言葉で書かれていると信じてきた。それは今でも信じている。だが、数学の言葉で書ききれない部分が、自然にはある。そこをないことにしてはならなかった」
「先生」
「私の数式は、近似だ。完全な記述ではない」
ニュートンは机の上のリンゴを掌に乗せた。
「リンゴが落ちる。これは、私の万有引力の法則で記述できる。だが、リンゴが何の味で、誰がどう食べるかは、私の数式では書けない。書けないものを、ないことにしてはならない」
カワウソは深く頭を下げた。
「申告書、書いていただけますか」
「ああ。書く」
ニュートンは羽ペンを取った。
ガリレオの天文台、再び
夜、カワウソはガリレオの天文台を訪ねた。振り子は、また自然な周期で揺れていた。
「カワウソ君、解決したのだな」
ガリレオは穏やかに笑った。
「ニュートン先生が、ご自身の絶対性を緩めることに同意されました。揺らぎは、誤差ではなく、現実として記録される、と」
「素晴らしい」
ガリレオは机の隅から、小さな金属の振り子を取り出した。
「カワウソ君、君に観測の振り子を授けよう」
「先生」
「世界を測る振り子だ。理論ではなく、観察で世界を確かめる道具だ。理論に揺らぎを許すための、自然の声を聞く振り子だ」
カワウソは振り子を受け取った。手の中で、振り子は静かに揺れていた。
「ありがとうございます」
「私は街で、観察と実験を取り戻したい。君と歩めば、それができそうだ」
ガリレオは笑った。
「それでも地球は動く。世界は、私たちの理論よりも、いつも少しだけ広い」
「はい」
印刷工房・夜
夜遅く、カワウソは印刷工房に戻った。マルクスはまだ輪転機の前にいた。
「どうだった」
「ニュートン先生、自白されました。観測の振り子、頂きました」
「ガリレオか。よい仲間だ。観察を信じる男は、物質を信じる男に近い」
マルクスは煙草を吸いながら、版下を整理していた。
「マルクス先生、最後に一つ。今日のニュートン先生の地図、誰かが先生に持ち込んでいませんでしたか」
マルクスは煙を止めた。
「何が言いたい」
「ニュートン先生の地図は、精密すぎました。自分一人で街全体を測量できる量ではない。誰かが手伝っていたのではないかと」
「観察ということか」
「ええ、観察ということでしょうね」
マルクスは煙草を吸い込んだ。煙が、ゆっくり立ち上る。
「俺は、街の全ての印刷物を見ている。版下も、地図も、噂も。見ているのは事実だ。だが、手伝っていたかどうかは、別の話だ」
「そうですね」
カワウソは深く頭を下げて、工房を出た。
エピローグ
事務所に戻ると、ヘーゲル、サルトル、ソクラテス、カント、ニーチェ、孔子、そしてマルクスの七人がデスクを囲んでいた。
「カワウソ君、解決したか」
「はい。仲間がもう一人増えました」
ガリレオが、戸口から望遠鏡を抱えて入ってきた。
「皆さん、はじめまして」
ヘーゲルが立ち上がった。
「ガリレオ先生か。観察で世界を確かめる方だな。我らとは違う角度の哲学だ」
「ええ。皆さんと、これから観察し合えれば」
カントが懐中時計を取り出した。長い間、じっと見つめていた。
「七時三十分」
カワウソが見上げた。
「先生、今、夜の七時三十分ですね」
「ぴったりだ」
カワウソは目を見張った。
「先生、今朝、十二分早く着いたとあれほど動揺されてたのに、結局、狂ってたのは街の時計の方だったんですね。先生の懐中時計は、ずっと正確だった」
「ああ」
ニーチェが鞭を肩から下ろした。
「自分を疑う前に、世界を疑え、と俺はずっと言ってるんだがな」
サルトルが煙を吐いた。
「先生のような時計の権化が、まず自分を疑った。理性の手続きだ。そういう先生だから、街は救われた」
「散歩を、しよう」
カントが立ち上がった。
カワウソはメモ帳を広げた。
仲間:8人。 武器:8つ(止揚の鏡、自由の刃、反問の槍、普遍の盾、永劫の輪、実践の鎚、仁の杯、観測の振り子)。 学んだ思想:弁証法、実存主義、問答法、定言命法、永劫回帰、唯物史観、儒教の仁、近代科学。
カワウソは月を見た。街の北、天文台で、ガリレオの振り子が、自然な周期でゆっくり揺れていた。
カントの懐中時計が、月明かりの下で、静かに時を刻んでいた。
街の南、印刷工房の窓に、まだ灯りがともっていた。
(第七話 了)