朝、カワウソは印刷工房に立ち寄った。
煤で黒くなった煉瓦の壁、輪転機の低いうなり、煙草の煙。すっかり馴染みになった景色だ。
工房の隅で、ヘーゲルが分厚い本を抱えて椅子に座っていた。横でソクラテスが何か質問を投げかけている。
ヘーゲル
ソクラテス
「ヘーゲル君、君のいう絶対精神とは、誰の精神なのかね」
「歴史そのものの、精神だ」
「歴史そのもの、とは、誰のことを指すのかね」
「……いや、全体だ」
「全体とは何かね」
ヘーゲルが嘆息した。ソクラテスは満足げに微笑んだ。
マルクス
マルクスは、輪転機の脇で煙草を吸いながら、版下の束を眺めていた。カワウソに気づき、煙を吐きながら言う。
「カワウソ君、来たか。今朝は妙な刷り物が回ってきている」
マルクスは束から一枚を抜き取り、デスクに広げた。漢文と日本語が入り混じった檄文のようなもの。
人は本来、善なり。 人は本来、悪なり。
「同じ街区で、二種類の檄文が同時に配られている。誰が刷ったかは分からん。俺の工房は通っていない」
カワウソは紙を覗き込んだ。
「街の東側で、住民が殴り合いを始めたらしい。お前は本当は善人だと言われた者が、いや俺は悪だと言い返して、拳が出た」
「殴り合い、ですか」
「下部構造は変わらん。労働者は普通に働いている。市場も回っている。だが、観念の戦争だけが、肉体の暴力に転じている」
ソクラテスが本から顔を上げた。
「人は本来何か、という問いそのものが、街を二分しているのか」
ヘーゲルが立ち上がった。
「弁証法的に言えば、善と悪は対立して止揚される。だが、並列のまま激突したら、止揚は起きない。ただの暴力だ」
マルクスはカワウソを見た。
「カワウソ君、街の東側に法治を説く男が住んでいる。韓非子だ。彼が事件を見ている。会いに行くといい」
「ありがとうございます」
カワウソはバッジを正し、印刷工房を出た。背後で、ソクラテスがまたヘーゲルに何か問い始めた。
街の東側・韓非子
街の東側の小さな官舎。法服を着た中年の男が、巻物を整理しながら、窓の外を見ていた。窓の下では、住民が二派に分かれて言い争っている。
韓非子
「カワウソ君か。よく来た」
韓非子は手を止めた。鋭い目、整った髪、簡潔な所作。
「マルクス先生からの紹介で参りました」
「彼は商業を見る男だ。私は法を見る。視点は違うが、観察の鋭さは同じだ」
韓非子は座るよう促した。茶を出すような気配はない。
「事件は、ご存じの通りだ。住民が人間性で対立し、殴り合いを始めた。人は本来善か悪かという議論が、街を二分している」
「先生のお考えでは」
「人間は本来、利害で動く。善も悪も後付けだ。だから、人を律するには法しかない。法を整えれば、人は法に従って秩序を保つ」
韓非子は鋭い目をカワウソに向けた。
「私は荀子先生の弟子筋にあたる。人は利害で動くという見方も同じだ。性悪に近い、と言われれば否定はせん」
「だが、私は性悪を論じることに興味がない。論じても人は変わらん。変えるのは法だ。だから、性善派と性悪派が論争して街を壊している現状は、私には無駄な争いにしか見えない」
「動機がある人物は」
「儒家の連中だ。彼らは人間性を語るのが好きだ。孔子・孟子・荀子・朱子。それから、人を愛で語る墨家の墨子。この五人の誰かが、自分の人間観を街に強要している可能性が高い」
「先生は、犯人ではないのですか」
「私は人間を律することにしか興味がない男だ。性悪の系譜にあろうと、それを街で論じる気はない。私は法を整えることだけに動く」
韓非子は巻物を畳み、立ち上がった。
「依頼料は私が負担する。秩序が乱れることは、私にとっての損失だ。早く解決してくれ」
「分かりました」
カワウソはメモ帳を取り出した。
容疑者
「順番に、話を聞こう」
カワウソは官舎を出た。広場では、まだ住民が言い争っていた。
孔子の堂
孔子は、街の東側の小さな堂にいた。弟子らしき若者が二人、傍らで筆を運んでいる。孔子自身は、低い机の前で、書物に目を落としていた。
孔子
「ようこそ、カワウソ君」
「孔子先生」
孔子は穏やかに笑った。長い白髪、整った衣、静かな所作。
「街の東側の事件で来ました」
「知っている。仁が、人と人の間から失われている」
「先生のお名前が、容疑として挙がっています」
「私ではない」
孔子は静かに答えた。
「私は仁と礼を説く者だ。仁は、他者を思いやる心。礼は、その思いやりを形に整える作法だ。私は人間性を一つに決めない。人は学んで成る、と私は考える」
「人間性を、一つに決めない」
「性善でも性悪でもない。人は素材であり、学びによって形になる。私は弟子に対しても、生まれつき善い者と悪い者を区別しない。学ぶ意志だけを問う」
孔子は弟子を顎で示した。
「この二人も、家柄も性格も違う。だが、学ぶことにおいて、同じだ。だから、私は二人とも教える」
「動機は」
「ない。私は街の対立を悲しんでいる。仁が形を失い、ただの叫びになっている」
「先生は、誰が犯人だとお考えですか」
孔子は少し沈黙した。
「性善か性悪かを激しく説く者だろう。私は両方を保留する。だから、私には動機がない」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。過ちて改めざる、これを過ちという。事件の犯人も、改めるなら過ちではなくなる」
カワウソは堂を出た。
孔子:仁と礼を説く。性善・性悪のいずれにも与しない。学びを重視。動機なし。
孟子の塾
孟子は、街の東側の小さな塾を構えていた。子供たちが机を並べ、声を揃えて何か朗誦している。
人皆有不忍人之心。(人は誰でも、他者の苦しみを見過ごせない心を持っている)
孟子
孟子は教壇に立ち、笑顔で子供たちを見守っていた。
「カワウソ君、よく来た。聞こえたかね、今の朗誦」
「人皆、人に忍びざるの心あり」
「そうだ。人は本来、他者の苦しみを見過ごせない心を持っている。井戸に落ちる子を見たら、誰でも手を伸ばす。これが人間の本性だ」
孟子は教壇を降り、カワウソに椅子を勧めた。穏やかで、自信に満ちた所作。
「事件のことは、ご存じですよね」
「ああ、知っている」
「失礼を承知でお伺いしますが、先生のご関与は」
「私ではない」
孟子は微笑んだ。
「私は性善を説く者だ。だが、強要などしていない。私はただ、真実を伝えているだけだ。人は本来善である。これを伝えれば、人々は自分の本性を思い出す。そして、よりよく生きるようになる」
「街では、その思い出させ方が、対立を生んでいるようです」
「それは、まだ気づいていない者たちが抵抗しているからだ。本当の善を知れば、抵抗は消える」
孟子はにこやかに語った。
「私は街に対して、善き性質を信じる気持ちを取り戻させたいだけだ。誰かが人は悪だと言い回ることに、私は反対している。それが対立を生んでいる」
「動機は」
「ない。私は啓蒙しているだけだ。子供たちに「君たちは本来善人だ」と教えている。これは罪ではない」
カワウソはメモを取りながら、塾の隅にあった印刷物の束を見た。性善のパンフレットと、もう一種、性悪派の主張を引用してそれを反駁する形式のパンフレットが、子供たちの机に積まれていた。
「先生、こちらは」
「反駁集だ。性悪派が何を言っているかを、まず引用する。そのあとで、私の論で潰す。子供たちに、議論の作法を教えるためだ」
「街でも、配っているのですか」
「街の住民にも、必要なら配る。正しい議論を見せるのは、善き行いだ」
カワウソは静かに頷いた。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。人皆、堯舜たり得る。誰もが聖人になれる。それを伝えるのが、私の仕事だ」
孟子は再び教壇に戻り、子供たちに笑顔を向けた。
孟子:性善説を説く。子供にも街にも配布。 パンフレットは二種類:性善の主張集と、性悪派を引用して反駁する反駁集。動機は「啓蒙」。
荀子の書斎
荀子は、街の東側の少し奥の書斎にいた。書物が積まれ、紙が乱雑に散らばっている。
荀子
「カワウソ君か。座れ」
荀子は椅子を顎で示した。整っていない髪、皮肉な目、低い声。
「事件のことで来ました」
「つまらん事件だ。本当に面白いのは、孟子があんなにも騒いでいることだ」
「と、言いますと」
「私は性悪を説く。人は本来、欲に従う。利を求め、害を避ける。これが本性だ。だから、礼を学んで矯正する必要がある」
荀子は紙を一枚拾った。
「だが、性悪を強要などしない。私は観察を伝えているだけだ。人を見れば、利で動いている。これは事実だ。事実を伝えるのに、強要も何もない」
「街では、対立になっています」
「孟子のせいだ。性善などと言うから、それに反発する者が出る。本来、性悪を冷静に受け入れれば、対立は起きない。礼を学べば、人は調和する」
「ひとつだけ確認させてください。事件への関与は」
「私ではない。私は書斎にいる。騒ぐのは、性善派だ」
荀子は皮肉な笑みを浮かべた。
「動機は」
「ない。私は孟子の哲学を笑っているだけだ。私自身は、街に何もしていない」
カワウソは荀子の机を見た。本のほかに、紙束はない。印刷物もない。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。人の性は悪、その善なるものは偽なり。善は学んで作るものだ。だから、性善などと言うのは、本末転倒だ」
荀子:性悪説。書斎で本を読む。孟子を笑っている。動機なし、印刷物なし。
墨子の工房
墨子は、街の東側の路地裏で、小さな工房を持っていた。木材と金属、簡素な道具。墨子自身は、汚れた服で、何か機械を組み立てていた。
墨子
「カワウソ君、こちらへ」
墨子は手を拭い、カワウソを招き入れた。
「事件のことで来ました」
「ああ、聞いている」
墨子は機械の組み立てを続けながら、語った。
「私は兼愛を説く者だ。全ての人を、同じように愛する。家族も他人も、自国民も外国人も、区別しない。それから、非攻。戦争を否定する」
「形式的な確認です。事件への関与は」
「私ではない」
墨子は即答した。
「私は人を愛する者だ。善悪の論争で街を分けるなど、私の哲学に完全に反する。愛は分けない」
墨子は機械から手を離し、カワウソに向き直った。
「性善か性悪かは、私には重要でない。重要なのは、愛するかどうかだ。人を愛するなら、その人が善人でも悪人でも、愛する。それが兼愛だ」
「動機は」
「ない。私は機械を作っている。城を守るための道具だ。戦争を止めるための工夫だ。それが、私の仕事だ」
カワウソは工房を見回した。簡素な道具、汚れた手、木材。労働の現場だった。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。愛は条件を持たない。誰かを善だから愛する、というのは、本当の愛ではない。ただ愛すること。それが私の哲学だ」
墨子:兼愛と非攻を説く。城防御の機械を作る職人。動機なし。
朱子の講堂
朱子は、街の東側のやや古い講堂にいた。書物が整然と並び、机の上には筆と硯。整った所作で、書を写している。
朱子
「カワウソ君、ようこそ」
朱子は穏やかに、しかし格式ある声で挨拶した。
「事件のことで来ました」
「ああ、心を痛めている」
朱子は筆を置いた。
「私は性即理を説く。人の本性は、理そのものだ。理は、宇宙の秩序であり、善である。だから、人は本来善である」
「孟子先生と、似ていらっしゃる」
「孟子は気質の性と本然の性を区別しなかった。私は区別する。本然の性は善だが、気質の性は欲に流される。だから、学んで本然の性に立ち戻る必要がある」
朱子は穏やかに語った。
「率直にお伺いします。事件への関与は」
「私ではない。私は講堂で、本然の性を教えている。だが、街で「君は本来善人だ」と簡略化して伝えているのは、孟子の塾だろう」
朱子は窓の外を見た。広場では、まだ言い争いが続いている。
「私の哲学は、学びを重視する。理を学ばずに善人だと思い込めば、それは慢心だ。慢心は、対立を生む」
「動機は」
「ない。私は講堂にいる。学ぶ者にだけ、教える」
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。存天理、滅人欲。天の理を存し、人の欲を滅する。これが学びの道だ」
朱子:性即理。講堂で学ぶ者に教える。孟子の簡略化を批判。動機なし。
印刷工房に戻って
夕方、カワウソは印刷工房に戻った。マルクスは輪転機の前で、新しい刷り物を眺めていた。
「どうだった」
「五人とも、動機がないと言いました」
「だろうな」
マルクスは煙草の灰を落とした。
「だが、街では檄文が増えている。誰かが刷っている」
カワウソはメモ帳を広げた。
孔子:仁と礼。性善・性悪を保留。学びを重視。動機なし。
孟子:性善説。子供と街にパンフレット配布。動機は「啓蒙」。
荀子:性悪説。書斎で笑う。印刷物なし。
墨子:兼愛・非攻。工房で機械を作る。動機なし。
朱子:性即理。講堂で学ぶ者に教える。孟子の簡略化を批判。動機なし。
マルクスはメモを覗き込んだ。
「孟子だけがパンフレットを配っている」
「はい。子供たちにも、街にも。性善の主張集と、性悪派を引用して反駁する反駁集の二種類です」
「ふむ。反駁集か」
マルクスは煙草の灰を落とした。
「マルクス先生、街で出回っている性悪のパンフレット、見せていただけますか」
マルクスは机の引き出しから一枚出した。人の性は悪、その善なるものは偽なり。荀子の言葉だけが、紙面いっぱいに大きく刷られている。
「文脈は」
「ない。この一文だけだ」
カワウソは紙をじっと見つめた。
「先生、孟子先生の反駁集、お持ちですか」
マルクスは別の紙を取り出した。同じく人の性は悪、その善なるものは偽なりで始まり、その後に孟子による反駁が続いている。
「先生、二枚を並べてください」
カワウソは並べた紙を指差した。
「紙の質が同じです。インクの色も。冒頭の字の組み方も。性悪のパンフレットは、孟子先生の反駁集の冒頭部分だけを切り取って刷り直したものです」
マルクスは煙を止めた。
「孟子の引用が、独り歩きしている」
「先生は反駁するために、相手の主張をまず大きく引用された。だが、街では引用部分だけが切り出されて、性悪のパンフレットとして広まった。反駁の文脈なしに」
「孟子は、自分の引用が切り抜かれることを、予測しなかった」
「あるいは、予測したかもしれませんが、反駁は届くと信じていた。だが、引用は反駁より速く広がった」
カワウソはバッジを正した。
「もう一度、孟子先生に会ってきます」
「行ってこい」
マルクスは輪転機に向き直った。だがその目は、煙草の煙の向こうで、どこか遠くを見ていた。
再び孟子の塾
夕方、塾には子供たちはもういなかった。孟子は教壇の前で、筆を運んでいた。
「カワウソ君、また来たのか」
「先生、お聞きしたいことがあります」
カワウソは二枚の紙を机に置いた。性善のパンフレットと、性悪のパンフレット。
「先生、この二枚、同じ印刷所で刷られています」
孟子は紙を見た。一瞬、筆が止まった。
「これは、私の反駁集の冒頭だな」
「街では、冒頭部分だけが切り抜かれて、性悪のパンフレットとして広まっています。先生の反駁は、削られています」
「ふむ。それは知らなかった。だが、知っていたとしても配布を止めはしなかっただろう。論駁とはそういうものだ。相手の主張を引用し、堂々と反駁する。私は楊朱と墨子にもそうしてきた」
「先生」
カワウソは反問の槍を取り出した。
「楊朱や墨子に対しては、読み手が論者でした。今回、街の住民は学者ではありません。冒頭の引用だけ読んで賛同する者、反駁まで読まずに反発する者が出ています。それを、先生は予測しなかったのですか」
「予測しなかった、と言えば嘘になる。だが、反駁は届くと信じていた。論の力で、性悪は最終的に折れる、と」
「届かない可能性は」
「考えなかった。私は、私の論を信じていた」
カワウソは普遍の盾を構えた。
「先生、すべての論者が、相手の主張を引用するときに、引用部分が独り歩きすることを考えずに配布したら、世界はどうなりますか」
「街は、引用に満ちる。文脈は消える。論駁は届かず、対立だけが残る」
「先生のされたことは、普遍化可能ですか」
「不可能だ」
孟子は筆を置いた。だが、姿勢は崩さなかった。
「カワウソ君、私はそれでも性善を信じている。人皆有不忍人之心は、私の哲学の核だ。間違いではない」
「ええ。先生のお説そのものを、私は否定しません」
カワウソは姿勢を正し、最後にもう一つだけ問うた。
「先生、街の東側で住民が殴り合っているとき、先生の忍びざるの心は、何を感じましたか」
孟子は、初めて目を逸らした。
「……痛んだ」
「痛んだのに、なぜ配布を止めなかったのですか」
「自分の説が広まることのほうが、目の前の痛みより大事だと思っていた。私は、長い目で見れば性善が勝つと信じていた。だから、今の痛みは通過点だと思った」
孟子は深く息を吐いた。教壇に手を置き、ゆっくり座り込んだ。
「だが、それは『人皆有不忍人之心』を説いた私自身が、自分の不忍人之心を後回しにしたということだ。私は、人皆を本来善だと説きながら、その人皆から、自分自身を除外していた。目の前の住民の痛みを見過ごせる者として」
「先生」
「これは矛盾だ。私の説そのものが、私を裁いている」
孟子は両手で顔を覆った。
「街の東側の対立は、私の責任だ。私の引用が、私の手を離れて、対立を煽った。私はそれを止めるべきだった日に、止めなかった」
カワウソは深く頭を下げた。
「申告書、書いていただけますか」
「ああ。書く」
孟子は筆を取り、白紙の上で手を止めた。窓の外、夕日が差し込んでいた。
孔子の堂、再び
夜、カワウソは孔子の堂を訪ねた。孟子の自白を伝えるために。
孔子は灯りを灯した堂で、静かに本を読んでいた。
「孟子は、自分の説を、自分自身に適用しなかったのだな」
孔子は穏やかに言った。
「先生」
「人皆有不忍人之心を説く者は、自分の不忍人之心を、人皆と同じだけ持つべきだ。孟子は、説を広めることに夢中で、街の住民の痛みを後回しにした。それは、仁ではない」
孔子は本を閉じた。
「カワウソ君、君は仁の杯を手に入れる」
孔子は机の隅から、小さな陶器の杯を取り出した。素朴で、温かみのある器。
「仁の杯だ。他者に何かを差し出すとき、それが本当に他者のためか、自分のためかを映す杯だ。差し出した手が自分のためなら、杯は曇る。他者のためなら、杯は澄む」
カワウソは杯を受け取った。手の中で、杯は静かに澄んでいた。
「ありがとうございます」
「私は街の東側で、仁の形を取り戻したい。君と歩めば、それができそうだ」
孔子は笑った。
「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや。学び続けることだ、カワウソ君」
「はい」
印刷工房・夜
夜遅く、カワウソは印刷工房に戻った。マルクスはまだ輪転機の前にいた。
「どうだった」
「孟子先生、自白されました。仁の杯、頂きました」
「孔子か。彼は仁を形にする男だ。よい仲間だ」
マルクスは煙草を吸いながら、版下を整理していた。
「マルクス先生、最後に一つ。今日のパンフレット、誰が刷っていたんでしょうか」
マルクスは煙を吐いた。
「街の東側に安い印刷所ができたらしい。誰かが、孟子に頼まれて刷っていたのだろう」
「俺の工房ではない」
カワウソは頷いた。
「ありがとうございました」
「明日もまた、にぎやかな一日になる」
マルクスはまた版下に向き直った。煙草の煙が、ゆっくり立ち上っていた。
エピローグ
事務所に戻ると、ヘーゲル、サルトル、ソクラテス、カント、ニーチェの五人がデスクを囲んでいた。
「カワウソ君、解決したか」
「はい。仲間がもう一人増えました」
孔子が、戸口から静かに入ってきた。
「皆さん、はじめまして」
ヘーゲルが立ち上がった。
「孔子先生か。学びと礼を説く方だな。我らとはまた違う角度の哲学だ」
「ええ。皆さんと、これから学び合えれば」
カントが時計を見た。
「歓迎の散歩を、しよう。夜の街は静かだ」
カワウソはメモ帳を広げた。
仲間:7人。 武器:7つ(止揚の鏡、自由の刃、反問の槍、普遍の盾、永劫の輪、実践の鎚、仁の杯)。 学んだ思想:弁証法、実存主義、問答法、定言命法、永劫回帰、唯物史観、儒教の仁。
カワウソは月を見た。街の東側で、住民が判定書ならぬ檄文を、ようやく手放し始めていた。性善か性悪かを叫ぶのを止めて、それぞれの夜を生きていた。
街の南、印刷工房の窓には、まだ灯りがともっていた。マルクスは、夜更けまで版下を整理していた。
(第六話 了)