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「我思う、ゆえに我あり」

デカルト近代

デカルトが『方法序説』第4部で、疑いえない哲学の第一原理として示した命題。

知恵

この言葉について

あらゆるものを疑っても、疑っている自分自身の存在だけは疑えないという、近代哲学の出発点となった命題。

【背景】

デカルトが『方法序説』(1637年)で述べた言葉。感覚も推論もすべてが欺かれている可能性があるとする「方法的懐疑」の末に、唯一確実な真理として発見された。

【解釈】

考えているという事実そのものが、考えている私の存在を疑いえないものにする。ここから哲学を建て直そうとしたデカルトの合理主義は、近代の学問全体の基礎となった。

【現代への示唆】

情報に溢れる現代で、何が確実に真実かを自分の頭で考え抜くことの重要性を教えてくれる。

さらに深く

【出典】

デカルトが1637年に出した『方法序説』の第4部にある。原文はラテン語ではなくフランス語で、je pense, donc je suis(ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スュイ)、「私は考える、だから私はある」である。デカルトはこの真理を、懐疑論者のどんな突飛な想定にも揺るがないとみなし、探していた哲学の第一原理として受け入れた。よく知られたラテン語の形が書かれたものとして最初に確認できるのは、1644年の『哲学原理』である。一方、『省察』にはこの決まり文句そのものは出てこない。『省察』の第二省察では、私はある、私は存在する、という命題が、私がそれを口にし、心に抱くたびに必然的に真である、という形で述べられている。

【よくある誤解】

「ゆえに」という言葉から、これを三段論法の結論と読みたくなる。考えるものはすべて存在する、私は考える、ゆえに私は存在する、という推論だという読み方である。デカルト自身はこれを否定している。『省察』への第二反論に答えた文章で、自分が考えるものであると気づくのは、どんな三段論法から引き出されたものでもない第一の概念だと書いた。私は考える、ゆえに私はある、と言う人は、存在を思考から三段論法で結論しているのではなく、精神の単純な直観によって、それ自体で知られることとして見ているのだという。もし三段論法なら、先に、考えるものはすべて存在する、という大前提を知っていなければならない。実際には、その一般命題のほうが、考えていながら存在しないことはありえないという自分の内の感じから学ばれる、というのである。

【この言葉のその後】

似た考えはデカルト以前にもあった。アウグスティヌスは『神の国』第11巻26章で、懐疑派に「もし君が欺かれているとしたら」と問われても恐れない、もし私が欺かれるなら、私はあるからだ、と書いている。存在しない者は欺かれることすらできない。この一文は、のちにアウグスティヌスのコギトと呼ばれることがある。デカルト以後には、私から出発すること自体を疑う者も現れた。ニーチェは『善悪の彼岸』で、私は考える、を直接的な確実性とみなす人々を無邪気な自己観察者と呼んだ。そして、思考は私が望むときではなく、それが望むときにやって来るのだから、主語の私を述語の考えるの条件とするのは事実の歪曲だと書いた。

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