『善悪の彼岸』
ぜんあくの ひがん
近代
既存の道徳を根底から問い直したニーチェの思想的主著
この著作について
ニーチェが1886年に公刊した、西洋の道徳的前提を根底から批判する思想的主著。
【内容】
副題は「未来の哲学へのプレリュード」。冒頭で「真理への意志とは何か」と問いを立て、従来の哲学者たちが真理を追い求めると称して実際には自分の「力への意志」を投影してきたと暴く。キリスト教道徳は弱者が強者に対して発明した「奴隷道徳」だと分析され、古代貴族的な「主人道徳」との対比が提示される。善悪の彼岸に立ち、自ら価値を創造する「自由な精神」が呼びかけられる。箴言的な短章の集積として、読者を挑発し続ける構成をとる。
【影響と意義】
道徳そのものを歴史的・心理的に疑う視点を開いた点が画期的で、フーコーの権力論、デリダの脱構築など、20世紀後半のポストモダン思想の重要な源泉となった。道徳の起源を問うという発想は、現代のメタ倫理学の基本課題を先取りしている。
【なぜ今読むか】
「怪物と戦う者は、自分も怪物にならないよう気をつけなければならない。深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込んでいる」など、名句の宝庫。正義を語る言葉に潜む権力への意志を見抜く訓練として、現代の論争疲れに効く処方箋となる。
どの訳で読むか
いちばん新しい訳で読みたいなら、2024年に出た講談社学術文庫の丘沢訳になる。『道徳の系譜』とあわせて1冊で読みたいなら、ちくま学芸文庫の信太訳が目安だ。章の題は訳ごとに違い、たとえば第4章は「箴言と間奏」「箴言と間奏曲」「格言と間奏」などと訳されている。
竹山道雄訳新潮社・新潮文庫、1954年
Amazonで探す版元のサイトによれば1954年5月18日に発売された。368ページ。章題は「哲学者の偏見について」「自由なる精神」「箴言と間奏曲」などと訳される。
木場深定訳岩波書店・岩波文庫、1970年
Amazonで探す通し番号は青639-5で、376頁。章題は第一章「哲学者たちの先入見について」から第九章「高貴とは何か」までで、結びの詩は「高き山々より」と訳される。巻末に訳者あとがきがある。
信太正三訳筑摩書房・ちくま学芸文庫、1993年
Amazonで探すちくま学芸文庫版ニーチェ全集の第11巻で、『道徳の系譜』と1冊にまとめた672頁の文庫。解説も訳者が書いている。
中山元訳光文社・光文社古典新訳文庫、2009年
Amazonで探す536ページの文庫で、電子書籍は2013年から配信されている。
丘沢静也訳講談社・講談社学術文庫、2024年
Amazonで探すここに挙げた中でいちばん新しい訳。章を「部」と呼び、題は「格言と間奏」「モラルの自然誌について」のように言い回しがほかの訳と違う。巻末に訳者あとがきがある。版元は訳者を、晴れやかで軽やかなニーチェ訳に定評があると紹介している。
さらに深く
【内容のあらまし】
1885年6月にシルス・マリアで記された序文は、真理が女だと仮定したらどうか、と切り出す。独断的な哲学者たちは、大まじめで不器用な口説き方をしてきたから、真理をものにできなかったのではないか。プラトンが純粋な精神と善そのものを発明したことは、これまでで最悪の独断の誤りと呼ばれる。本文は番号つきの296の節が9つの章に分かれ、最後に詩が一篇置かれる。
第1章「哲学者たちの先入見について」の冒頭では、真理への意志に問いかけるうちに、誰がオイディプスで誰がスフィンクスなのかがわからなくなる。第4節は、判断が誤っていることはその判断への反論にならず、問うべきはそれがどれだけ生を促し保つかだと言う。偽りを生きるための条件と認める哲学は、それだけで善悪の彼岸に身を置くと続け、本文で書名の言葉が初めて現れる。続く節では、偉大な哲学はどれも著者の自己告白で、意図せず書かれた回想録だったと言われ、自然に従って生きよと説くストア派は、際限なく浪費し、何にも無関心な自然にどう従うのかと問われる。私は考えるという確かさにも疑いが向く。思考は私が望むときでなく、思考が望むときにやって来るからだ。
第2章「自由な精神」は、内側から見た世界は力への意志にほかならないという仮説を試し、「Alles, was tief ist, liebt die Maske(深いものはみな仮面を愛する)」と書き、来たるべき哲学者たちを、危うい名だと断って「試みる者」と呼ぶ。第3章は宗教的な心理を探り、あったものをそのまま永遠にもう一度と求めて「ダ・カーポ」を叫ぶ、世界を最も肯定する人間の理想を示す。第4章には、それをしたと記憶は言い、そんなはずはないと誇りが言い張り、ついに記憶が折れる、といった短い箴言が並ぶ。
第6章「われら学者たち」では、カントやヘーゲルのような哲学の労働者と、こうあるべきだと命じて価値を創る本来の哲学者が区別され、哲学者はいつもその時代のやましい良心だったと言われる。
第9章「高貴とは何か」は、身分の隔たりから育つ距離のパトスを語り、主人道徳と奴隷道徳の二つの型を区別する。支配する側が定める「よい」と「わるい」の対立は、「善」と「悪」の対立とは別の生まれだと言う。第295節は、心の天才をたたえたあとで、その持ち主が神ディオニュソスだと明かす。第296節では、書き留めた自分の思想が早くも新しさを失い、真理になりかけていると嘆く。結びの詩「高き山々より」では、人生の正午に友を待つ詩人のもとへ来た旧友たちが変わった彼にためらい、立ち去るよう告げられる。最後に新しい友ツァラトゥストラが客の中の客として訪れる。
著者
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