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省

『省察』

しょうさつ

近代

デカルトがすべてを疑い「我思う、ゆえに我あり」に到達した近代哲学の出発点

哲学

この著作について

デカルトがあらゆる知識をいったん疑い尽くし、そこから哲学を建て直そうと試みた近代哲学の記念碑。

【内容】

六つの「省察」という一人称の思索日記の形式で進む。感覚は欺くかもしれない、今この瞬間が夢かもしれない、さらには悪意ある欺く霊が私の思考をまるごと騙しているかもしれない、と疑いを極限まで押し進めた末、「疑っている私は確実に存在する」という一点にたどり着く。コギト(我思う、ゆえに我あり)の発見から、神の存在証明、明晰判明な観念の規則、物体的世界の実在、心身の区別へと段階的に再建していく。末尾には同時代の神学者・哲学者たちによる反論とデカルト自身の答弁が付されている。

【影響と意義】

伝統的な権威に頼らず、一人の思考者の内省から世界像を再構築したという点で、近代哲学の出発点とされる。スピノザ・ライプニッツ・カントからフッサールに至るまで、この書を乗り越えるか引き継ぐかがヨーロッパ哲学の主要な課題となった。心身二元論の原型としても、心の哲学の議論の起点であり続ける。

【なぜ今読むか】

フェイクや生成AIが現実感を揺さぶる時代に、「自分は何をもって確かと言えるか」をゼロから組み立て直す手つきを追体験できる。疑いの作法を身につけるための、なお新鮮な一冊である。

どの訳で読むか

註解と索引のついた文庫の新訳で読むなら、ちくま学芸文庫の山田訳が目安になる。情念を論じた著作や書簡集もあわせて読みたいなら中公クラシックスの井上・森訳、近世ラテン語の語義まで確かめながら精密に読みたいなら所雄章の訳解がある。三木清訳は青空文庫で無料で読める。

  • 山田弘明訳筑摩書房・ちくま学芸文庫、2006年

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    文庫判320頁。版元は古典の新訳と紹介し、デカルトの全テキストとの関連を見渡せる註解と総索引、解説がつくとうたう。目次は、ソルボンヌ宛書簡、読者への序言、概要、第一から第六の省察、諸根拠の順に並ぶ。

  • 井上庄七・森啓訳中央公論新社・中公クラシックス、2002年

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    省察のほかに、情念を論じた著作と書簡集を同じ一冊に収める。この二つは野田又夫の訳。

  • 所雄章訳岩波書店・岩波オンデマンドブックス、2022年

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    書名どおりの訳解書。版元の紹介によれば、語源と近世ラテン語独特の語義を踏まえて訳し、1595年刊のいわゆる天草辞典(羅葡日対訳辞書)を使って当時のラテン語と日本語のつながりを探っている。A5判並製566頁で、版元のサイトでの在庫表示は「オンデマンド制作」。

  • 三木清訳岩波書店・岩波文庫、1949年

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    創元社のデカルト選集第二巻(1948年)を親本とする文庫で、解説は野田又夫と落合太郎。紙の本は版元のサイトで品切れと表示されている(2026年10月時点)。この文庫を底本にした同じ訳を、青空文庫で無料で読める。

さらに深く

【内容のあらまし】

本文の前に、ソルボンヌ宛の書簡、読者への序言、六つの省察の概要が置かれる。書簡は、神と魂の問題は神学より哲学で論証すべきで、信仰を持たない人には自然的理性による証明が要ると訴える。序言は、1637年にフランス語で出した『方法序説』でこの問題に触れたと述べる。

第一省察で、デカルトは心配事から離れて閑暇を得た今日こそ、自分の意見を全面的にくつがえすと宣言する。意見を一つずつ調べず、土台を掘り返してその上に建つものを崩す。感覚は時に欺き、暖炉のそばで服を着ていることも、夢の中で何度も信じてきた。2と3を足すたびに神が自分を誤らせているのではないか、という疑いまで考える。古い意見が戻ってくるのを防ぐため、最善の神ではなく、悪意があり、このうえなく力をもつ老獪な霊が全力で自分を欺いていると仮定する。

第二省察は、渦巻く深淵に落ちたような懐疑から始まる。「私は有る、私は存在する」という命題は、口にし心でとらえるたびに必然的に真だとされ、私とは疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、想像し、感覚する思惟するものだと答える。火に近づけた蜜蝋は味も香りも色も形も変わるのに同じ蜜蝋として残り、それは感覚でも想像でもなく精神の洞観で知られると論じる。

第三省察は、明晰判明に知覚するものは真だという規則を立てるが、神が欺く可能性が残るため神の存在を検討する。無限の実体の観念は有限な自分から生じえないとして神の存在を導き、その観念は職人が作品に刻むしるしのように植えつけられたと論じる。第四省察は、神は欺かないので、誤りは意志が理解の及ぶ範囲を超えて広がることから生じ、明晰判明な知覚は真だとする。第五省察は、谷なしに山を考えられなくても山が在ることにはならないが、存在するものとしてしか神を考えられない以上、神は存在すると論じ、幾何学の確実性も神の認識にかかると見る。

第六省察は、千辺の図形を三角形のようには心の目に思い描けないとして想像と知性を分け、自分は延長をもたず思惟するだけのものとして身体から実際に区別されると結論する。感覚の観念を作る能動的な力は自分の内になく、神は欺瞞者でもないから、物体は存在するという。痛みや飢えや渇きは、水夫が船にいるように身体の中にいるだけではなく、身体と一体をなしていることを教える。夢は生涯の他の出来事と記憶で結びつかない点で覚醒と区別され、誇張された懐疑は笑うべきものとされるが、行動の必要から厳密な検査が許されず、人間は誤りやすいとも認める。

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