
本居宣長
もとおり のりなが(Motoori Norinaga)
1730年 — 1801年
「もののあはれ」を見出した国学の大成者
この人物について
35年を費やして『古事記伝』を完成させ、日本古来の精神を学問的に解明した国学の最高峰。
【代表的な思想】
■ もののあはれ
『源氏物語』の本質を「もののあはれを知る」ことにあると論じた。善悪の教訓ではなく、人の心が物事に触れて自然に動く情感こそが文学の核心であるとした。
■ 古事記伝
全44巻に及ぶ『古事記伝』で、日本最古の書物『古事記』を精密に注釈。儒教や仏教の影響を排し、日本固有の神話と精神を学問的に復元しようとした。
■ 漢意《からごころ》批判
中国的な合理主義や道徳論で日本の古典を読むこと(漢意)を批判し、日本古来の素朴な感性に立ち戻ることを主張した。
【特徴的な点】
三重の松阪で医業を営みながら学問を続けた在野の学者。賀茂真淵《かものまぶち》との「松阪の一夜」の出会いが国学への道を決定づけた。
【現代との接点】
日本文化論・美意識の源流として、文学研究・文化論で繰り返し参照される。感性を知の基盤に据える姿勢は、理性偏重への問い直しとして現代にも通じる。
さらに深く
【思想の形成】
本居宣長は1730年、伊勢国《いせのくに》松阪の木綿問屋・小津家に生まれた。家業に向かず、22歳で京に上って儒医堀景山《ほりけいざん》に学び、儒学・仏書・歌学を広く身につけた。京での五年間に契沖《けいちゅう》の古典注釈に出会い、文献を綿密に読むことの快楽を知った。松阪に戻って町医者を営みながら『排蘆小船』『石上私淑言』で歌論を練り、34歳の時に参宮途上の賀茂真淵と松阪の宿で面会した、いわゆる「松阪の一夜」を迎える。真淵から『古事記』に取り組むよう託された宣長は、以後35年をかけて全44巻の『古事記伝』を書き継ぐ。在野の医師が日々の診察の合間に学問を積み上げ、膨大な注釈書へと結晶させた過程そのものが、江戸期の知の独立の象徴であった。
【思想的意義】
宣長の思想は文学論と古代研究の二重奏として読み解ける。『源氏物語玉の小櫛』では、物語の価値を仏教的因果応報や儒教的勧善懲悪から切り離し、「あはれ」を感じ取る心の運動そのものに位置づけた。これは美的経験を道徳から独立させる近世的な転換である。『古事記伝』では訓註のひとつひとつに長大な論証を積み重ね、神代の文字遣いと音韻を復元することで、外来概念に汚染される前の「やまとごころ」に迫ろうとした。ここから導かれる漢意批判は、単なる排外主義ではなく、借り物の論理で事物を整理することへの方法的懐疑であり、解釈者が自己の前提を絶えず点検する態度の提言でもあった。
【影響と継承】
宣長の門下は平田篤胤《ひらたあつたね》らに受け継がれ、幕末の復古神道《ふっこしんとう》と尊王思想の伏流となった。他方、芸術論としての「もののあはれ」は近代日本文学研究の基本概念となり、久松潜一《ひさまつせんいち》・丸山眞男《まるやままさお》らによる宣長再解釈を促した。小林秀雄の『本居宣長』は戦後文芸批評の代表作であり、長大な注釈行為そのものを思考の範例として描いた。現代のテクスト論や解釈学の関心から見ても、読みの粘り強さと方法的自覚という点で宣長の仕事は色あせない。
【さらに学ぶために】
子安宣邦《こやすのぶくに》『本居宣長』が見通しのよい入口である。原典は『うひ山ぶみ』『玉勝間』が読みやすい。小林秀雄『本居宣長』は難所を踏み抜く豊かな道行きで、宣長の文章を抜粋で味わうのにも適している。






