
伊藤仁斎
いとう じんさい(Ito Jinsai)
1627年 — 1705年
『論語』を最上至極の書とした古義学の創始者
この人物について
朱子学の抽象的理論を退け、孔子・孟子の原典に立ち返って人間の日常的な道徳を重視した江戸前期の儒学者。
【代表的な思想】
■ 古義学《こぎがく》
朱子学の「理気《りき》二元論」を批判し、孔子・孟子の原典(古義)に直接立ち返ることで儒学の本来の意味を回復しようとした。
■ 仁と愛の重視
朱子学が「理」を最高原理としたのに対し、仁斎は「仁」=人を愛する心こそが道の根本であるとした。人間の温かい情愛を道徳の出発点に据えた。
■ 日用道徳の尊重
聖人の境地のような高遠な理想ではなく、日々の暮らしの中での誠実な人間関係こそが道徳の実践であるとした。
【特徴的な点】
京都の堀川に私塾「古義堂《こぎどう》」を開き、身分を問わず門下生を受け入れた。一度も仕官せず在野の学者として生涯を貫いた。
【現代との接点】
抽象的な理論よりも日常の実践を重視する姿勢は、ケアの倫理やプラグマティズムにも通じる。原典に戻って考え直すという方法論は学問の基本である。
さらに深く
【思想の形成】
伊藤仁斎は1627年、京都堀川の商家に生まれた。幼少から学問を好み、朱子学に打ち込んだが、28歳のころ病を得て家業を弟に譲り、隠棲して仏教・老荘を学んだ。この時期に朱子学への疑いが芽生え、やがて「理気二元」と禁欲的な居敬主義《きょけいしゅぎ》に違和感を覚え、儒の本旨は日常の情愛にあるはずだと確信する。1662年、堀川の自宅に私塾「古義堂」を開き、以後四十年以上にわたり仕官せず講学に専念した。門人は三千人に及び、さまざまな身分や職業の者が学んだと伝わる。朱子学官学の枠から距離を置き、京町人の日用感覚に根ざした儒学を独自に組み立てた点が、仁斎の立ち位置を決定づけている。
【思想的意義】
『語孟字義』では朱子学の鍵語を一つずつ解体し、「理」は事物のうちに内在する条理であって、事物に先立つ形而上的原理ではないと読み替えた。かわりに『論語』の「仁」を最上の概念と置き、これを愛、すなわち他者を生かそうとする温かな心のはたらきだと定義する。『童子問』では少年との対話形式を用いて、礼とは人情を形に表すものであり、形骸化した儀礼は道ではないと説く。ここにあるのは、抽象的宇宙論から倫理を演繹するのではなく、日用の交わりの実感から儒学を再構築する方向性である。後に「血脈」の語で自ら示したように、本文の文脈を追体験する読解法は、テクストに生命を取り戻す方法論でもあった。
【影響と継承】
息子東涯《とうがい》が古義堂を継ぎ、伊藤家の塾は幕末まで二百年近く続いた。のちに大坂の町人の学問所である懐徳堂《かいとくどう》からは、荻生徂徠《おぎゅうそらい》の仁斎批判に反論する擁護者が現れた。丸山眞男《まるやままさお》は、朱子学から荻生徂徠・本居宣長《もとおりのりなが》らの「近代的思惟」が育つ過程を描いた。英語圏では、ジョン・アレン・タッカーが『語孟字義』を主題とする研究書を著している。
【さらに学ぶために】
『童子問』が読みやすい入口となる。岩波日本思想大系『伊藤仁斎 伊藤東涯』には『語孟字義』などが収められている。子安宣邦《こやすのぶくに》『伊藤仁斎:人倫的世界の思想』は平明かつ独自の読みで定評がある。




