専門編 · 哲学の主要分野 · 第86章
宗教哲学:神をめぐる現代の論争
1755年11月1日、諸聖人の祝日。多くの信徒が日曜礼拝に集まっていた朝、リスボンを巨大な地震が襲い、津波と火災が続きました。死者数万人。ヴォルテールはこの出来事を機に、ライプニッツの「最善の世界」という弁神論を『カンディード』で痛烈に皮肉りました。本章では神をめぐる哲学的問いの主要論点を辿ります。
神の存在証明 — 三つの古典的論証
神の存在を理性的に証明しようとする試みは、伝統的に三つに分類されます。アンセルムスの存在論的論証は、「神は最も偉大な存在者」という概念から出発し、概念に存在が含まれていなければ最も偉大とは言えないとして、神の存在を導きます。トマス・アクィナスの五つの道は、運動・原因・偶然性・段階・目的論からそれぞれ神に至る論証を提示しました。
カントは『純粋理性批判』の弁証論で、これらの論証が経験の枠を超えるため、いずれも理論理性では成立しないと示しました。それでも宇宙論的論証は20世紀のウィリアム・レーン・クレイグによる「カラーム宇宙論的論証」として、目的論的論証は近年の精密調整論証(fine-tuning argument)として、現代の宗教哲学で更新されています。
悪の問題 — リスボンとアウシュヴィッツ
神の存在に対する最も強力な反論が悪の問題です。神が全知・全能・全善ならば、なぜ悪が存在するのか。リスボン地震は自然悪の事例で、罪なき幼児が瓦礫の下に埋まる事実を、いかなる神義論が正当化できるのか。20世紀のアウシュヴィッツは道徳悪の事例で、人間が組織的に同胞を絶滅させた事実をどう説明するのか。
プランティンガは「自由意志弁神論」で、人間の自由が成立するためには悪の可能性が論理的に必要だ、と論じました。マリリン・マッコード・アダムスは「ホロコーストのような恐ろしい悪は、より大きな善のための道具とは見なせない」とこの応答を批判し、神の臨在そのものが苦しみと共にあるという別の神義論を提示しています。
信仰と理性 — キルケゴールからプランティンガへ
信仰と理性の関係は、古来の論争主題です。キルケゴールは『おそれとおののき』で、アブラハムがイサクを犠牲に捧げようとした旧約の場面を取り上げ、信仰は理性的計算を超える「跳躍」だと論じました。倫理的義務(息子を殺してはならない)と神の命令の対立を前に、信仰者は不可解さを引き受ける。
20世紀後半、アルヴィン・プランティンガは「改革派認識論」を提唱し、神への信仰は他の信念と同様に「正当化される基本信念」になりうると論じました。神の存在を論理的に証明する必要はなく、信頼できる認識能力(センスス・ディウィニタチス)が直接神を捉えます。これは無神論からの「信仰は非合理だ」という攻撃への、現代的応答です。
新無神論と現代の宗教哲学
2000年代、リチャード・ドーキンス『神は妄想である』、サム・ハリス、クリストファー・ヒッチンズ、ダニエル・デネットの「新無神論」運動は、宗教を疑似科学・道徳的有害物として批判しました。ドーキンスはダーウィン進化論の観点から、宗教は文化的ミームの寄生にすぎないと論じる。
これに対し、ジョン・ヒックの宗教多元主義、チャールズ・テイラーの『世俗の時代』、ジェームズ・スミスらは、宗教を排除でも単純擁護でもなく、近代の世俗化という条件のなかで宗教経験がどう変容するかを問い直しました。仏教的・儒教的・東アジア的な宗教経験の哲学的分析も、近年活発化しています。次章では、別の制度的価値、法をめぐる哲学に進みます。
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