
アンセルムス
Anselm of Canterbury
1033年 — 1109年
神の存在の存在論的証明を提唱したスコラ哲学者
この人物について
純粋な思考のみから神の存在を証明しようとした「スコラ哲学の父」。理性によって信仰を深めるという中世哲学の方向性を決定づけた。
【代表的な思想】
■ 存在論的証明
「それ以上に偉大なものが考えられないもの」として神を定義した場合、そのような存在は思考の中だけでなく現実にも存在しなければならない。経験に頼らず純粋な論理だけで神の存在を証明しようとした画期的議論である。
■ 理解を求める信仰
「信じるために理解するのではなく、理解するために信じる」(fides quaerens intellectum)をモットーに、信仰の内容を理性によって解明することを目指した。信仰と理性は対立せず、信仰が理性的探究の出発点となる。
■ 充足論
『なぜ神は人間になったか(クール・デウス・ホモ)』で、キリストの受肉と贖罪の必然性を理性的に論証しようとした。
【特徴的な点】
アウグスティヌスが内面的体験から神に至ったのに対し、純粋な論理的推論で神の存在に到達しようとした。存在論的証明はデカルト、ライプニッツ、ヘーゲルへと受け継がれ、カントによる批判も含めて哲学史上最も長く論じられた議論の一つである。
【現代との接点】
分析哲学でも論証は精緻化と批判が続く。「概念から存在を導けるか」という問いは存在論や論理学の根本問題として今も生きている。
さらに深く
【思想の形成】
アンセルムスは1033年、北イタリアのアオスタに貴族の家に生まれた。若くして母を失い父と不和になり、アルプスを越えてフランス各地を放浪した末に、ノルマンディーのベック修道院に至る。そこで著名な神学者ランフランクスに師事し、1060年にベネディクト会士として誓願を立てた。1063年に副院長、1078年に院長となり、修道院を当代随一の学問の中心に育て上げる。1093年、国王ウィリアム二世の不興を買いながらもカンタベリー大司教に任命され、以後二度にわたり聖界と俗界の対立(叙任権闘争《じょにんけんとうそう》)によってイングランドから追放された。ローマ教皇ウルバヌス二世の支持を得て職務に復帰し、1109年にカンタベリーで没した。
【思想的意義】
『モノロギオン』は、段階的に善いものの等級をたどって最高善に至る独白形式の論証を展開する。続く『プロスロギオン』はこれを一本の論証に凝縮しようとした結実で、神を「それよりも大なるものが考えられえぬもの(id quo nihil maius cogitari potest)」と定義するところから出発する。その定義上、神が知性のうちのみにあって現実にもないと仮定すれば、現実にもある方がさらに大であることになり定義と矛盾する。信仰と理性の関係については「理解するために信じる」を基本姿勢とし、信仰の内容を理性の吟味にさらすことを怖れなかった。『なぜ神は人間となられたか』では、贖罪の必然性を罪と義の均衡から論じる充足説《じゅうそくせつ》を展開した。
【影響と継承】
同時代のマルムティエの修道士ガウニロは『愚者のために』で有名な「失われた島の反論」を唱え、アンセルムスはこれに応答して論証を補強した。この往復書簡は哲学的論争の古典となる。存在論的証明はトマス・アクィナスに否定され、ライプニッツとデカルトによって形を変えて復活し、カントの『純粋理性批判』で「存在は述語ではない」という観点から批判された。二十世紀にはノーマン・マルコムやアルヴィン・プランティンガが様相論理学《ようそうろんりがく》を用いて新たな形で再構築している。『なぜ神は人間となられたか』の充足説はトマスを経て宗教改革期のプロテスタント神学にも流れ込み、贖罪論の古典的枠組みを形成した。
【さらに学ぶために】
『プロスロギオン』はきわめて短く、古田暁《ふるたあきら》訳(教文館『中世思想原典集成』所収)やオックスフォードの英訳でも比較的容易に読める。八木雄二《やぎゆうじ》『天使はなぜ堕落するのか』や稲垣良典《いながきりょうすけ》『中世哲学入門』は、アンセルムスを中世哲学の地図のなかで位置づけるのに役立つ。


