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専門編 · 哲学の主要分野 · 第85

メタ倫理学:道徳の基礎を問う

1739年、28歳のデイヴィッド・ヒューム人間本性論第三巻に小さな脚注を置きました。哲学者たちが「神は存在する」「人間は社会的だ」と「である」を語った直後に、突如として「だから人は他者を尊重すべきだ」と「べき」を語り始める。この移行をどう説明するのか、と彼は問います。事実から価値は導けません。この5行の問いが、現代メタ倫理学めたりんりがくの出発点となりました。

ムーアと自然主義的誤謬

1903年、ケンブリッジの27歳の哲学者G・E・ムーアは倫理学原理で、ヒュームの問いを論理的に精緻化しました。彼が「自然主義的誤謬」と呼んだのは、「善(good)」を何らかの自然的性質(快楽、進化的適応、欲求の充足など)に還元しようとする試みです。ベンサムは「善=快楽」、ハーバート・スペンサーは「善=進化的進歩」と語った。しかし、と彼は問います。

「快楽は善いか」と尋ねることは意味を持つ。善が快楽そのものであれば、この問いは「快楽は快楽か」というトートロジーにけるはずなのに、そうではありません。これがムーアの「開かれた問い論証」です。善は分析的に他の自然的性質に還元できない、独自の単純な性質である、というのが彼の結論でした。20世紀メタ倫理学は、このムーアの問題提起への応答として展開してきました。

情緒主義 vs 認知主義 — 道徳の地位

1930年代、ウィーン学団の影響を受けたA・J・エイヤーとチャールズ・スティーヴンソンは、別の方向に進みました。「殺人は悪い」という命題は、事実の主張ではなく、話者の情緒じょうちょの表明です。「殺人、ううっ!」と言うのと変わらない、と。これが情緒主義です。道徳判断には真偽がなく、感情の表出に過ぎません。

情緒主義は単純すぎると批判され、R・M・ヘアの規範主義へと洗練されます。「殺人は悪い」は事実主張ではないが、「私はあなたを含む誰もが殺人をしないことを意志する」という普遍的命令の表明だ、と。情緒主義と認知主義の対立は、「道徳判断は真偽を持つか」という根本問題をめぐって、20世紀後半まで続きます。

マッキーの誤謬説 — 道徳的事実は存在しない

1977年、オーストラリアの哲学者J・L・マッキーは倫理学:正と不正の発明で衝撃的な主張をします。私たちが日常で道徳について語る方法は、客観的な「正しさ」「不正さ」が世界に存在することを前提にしている。だが実際にそんな客観的事実は存在しません。よって私たちの道徳的言説はすべて系統的けいとうてきに誤っている、と。これが「誤謬説(error theory)」です。

マッキーの議論は二段階です。形而上学的議論として、客観的価値は宇宙の構造に組み込まれた「奇妙きみょうな存在物」になるはずで、これを認める根拠はありません。認識論的議論として、もし客観的価値が存在しても、私たちはそれをどうやって認識するのか分かりません。20世紀後半の道徳実在論者たちは、この二つの挑戦に応答することを迫られました。

構成主義と神経倫理学 — 21世紀の地形

ロールズとコースガードらの構成主義は、別の応答を示します。道徳的事実は世界に「ある」のではなく、合理的行為者が立法する手続きから「構成される」。これはカントの自律概念の現代的継承であり、客観性を維持しながら超自然的存在物への依存を避ける道です。デレク・パーフィット何が大事かはこの伝統の壮大な集大成と評されます。

21世紀には、神経倫理学・進化倫理学・実験哲学が新しい挑戦を提起しています。道徳判断が脳の特定の領域から生じる事実は、その判断の客観性に何を意味するのか。文化や進化的歴史が判断を形成しているなら、それは「真理を捉えている」のか、それとも単に適応的なのか。次章では、宗教的価値が現代でどう論じられているかを問う、宗教哲学に進みます。