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「死への存在」

ハイデガー現代

ハイデガーが『存在と時間』で、人間の存在のあり方を死との関わりからとらえた概念。

死

この言葉について

人間は常に死に向かって生きている存在であり、死との関わりの中で初めて本来的な自己が問われるという実存分析。

【背景】

ハイデガーが『存在と時間』(1927年)で展開した現存在(ダーザイン)の分析の中心にある概念。人間の存在構造の核心に死を据えた。

【解釈】

日常では死を「いつか来るもの」と曖昧にしているが、死は常に「自分の」「確実な」「いつ来るかわからない」可能性である。この事実に向き合うことで、世間の雑事に埋没した「非本来的」な生から目覚め、自分自身の生を取り戻せる。

【現代への示唆】

死を避けるのでも思い詰めるのでもなく、限りある時間の中で、自分の生き方を本当に自分で選んでいるのかを問い直すきっかけを与えてくれる。

さらに深く

【出典】

「死への存在」は、ドイツの哲学者ハイデガー(1889〜1976)が1927年刊の『存在と時間』で用いた術語で、原語は「Sein zum Tode」である。一文の名言ではなく、人間(ハイデガーの用語で「現存在」、ダーザイン)の存在の仕方を名指す概念だ。ハイデガーは、人の一生が終わる出来事である「落命」(Ableben)と、本来の意味での「死」(Tod)を区別し、死を「現存在の絶対的な不可能性の可能性」と定義した(原書の頁付けで250頁)。死は単なる経験的な事実としてではなく、追い越すことのできない極限の存在可能性として、自分自身を得るか失うかを現存在に迫るものとされる。この分析は、著作の後半にあたる第2篇「現存在と時間性」で、日常の順応から離れて本来的に自己であることの問題とともに展開された。

【よくある誤解】

「死への存在」を、いつも死のことを考えて暮らせという勧めと読むのは誤りである。ハイデガーは、本来的な態度である「先駆」(死の可能性へと先回りして関わること)は、死について思い悩むことでも、その可能性がいつどのように実現するかを思案することでもないと明言している(原書261頁)。先駆とは、有限な自分の存在を有限なものとして積極的に引き受けて生きることであり、それが、たまたま押しつけられた可能性への拘束から人を解放するとされる。またハイデガーは、落命という出来事ばかりに気を取られ、死への本来の関わりを欠くことを、むしろ非本来性のしるしとみなした。こうして開かれるのは、彼の言葉で、世間一般の「ひと」(das Man)の幻想から解き放たれた、死への情熱的な自由である(原書266頁)。

【この言葉のその後】

『存在と時間』は、サルトル、ガダマー、アーレントらの主著を理解するための基礎とされ、西田幾多郎を中心とする京都学派も刺激を受けた。サルトルは1943年の『存在と無』で、題名からしてハイデガーを受け継いでいるが、ハイデガー自身はこうした実存主義的な解釈を退けた。死への存在という規定の背景には、キルケゴールの墓前での講話や、パウロ、アウグスティヌス、ルターといったキリスト教の著者の影響が指摘されており、研究者ドレイファスは第2篇を、キルケゴールのキリスト教を世俗化したものになぞらえている。死を見つめて今を大切にせよという人生訓と重なって見えるが、ハイデガーが問うたのは、死との関わりを通して、人が世間に流されず自分自身であることができるかどうかだった。

この言葉を残した人物

「死」の名言

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