『存在と時間』
そんざいと じかん
ハイデガー·現代
「存在の意味」を問い直した20世紀哲学の最重要著作
この著作について
マルティン・ハイデガーが1927年に公刊した、「存在とは何か」という根本問題を人間存在の分析から問い直した20世紀哲学の記念碑。予告された後半部は未完に終わった。
【内容】
古代ギリシア以来忘れられてきた「存在そのものの意味」を問うために、存在を問う存在者である人間=「現存在(げんそんざい・ダーザイン)」の分析からスタートする。人間は単なる主観ではなく、道具を使い他者と関わりながら世界の中で生きる「世界内存在」として捉えられる。日常は「ひと(世間・みんな)」に流される非本来的なあり方で満たされるが、不安・良心の呼び声・死への先駆けを通じて、固有の自分を引き受ける本来性が開かれる。この全体を支えるのが「時間性」であり、未来から現在を引き受けるという実存的時間の構造が提示される。
【影響と意義】
サルトル、メルロ=ポンティ、ガダマー、デリダ、レヴィナスなど20世紀の大陸哲学のほぼ全体に決定的な影響を与えた。実存主義・解釈学・脱構築・現代の環境思想・技術論も本書を前提にしている。
【なぜ今読むか】
難解で知られるが、「ひと」に流されて生きる非本来的なあり方の分析は、SNS社会を生きる私たちに切実に響く。自分の時間を生きるとはどういうことかを、根本から考え直すための古典。
さらに深く
【内容のあらまし】
ハイデガーは序論で、古代ギリシアの「存在とは何か」という問いが二千年のあいだに摩耗し、自明のものに退いてしまったと指摘する。この問いを蘇らせるためには、存在を問うことができる唯一の存在者、つまり人間を入口にしなければならない。彼はこの人間を「現存在」と呼び、本書はその現象学的分析の歩みとして進められる。
第一篇で現存在の日常が腑分けされる。私たちはまず机を見つめる主観として世界に向かうのではない。気づけばすでに道具を使い、他者と関わり、家や街路のなかにいる。この基本構造が世界内存在である。ハンマーは観察対象としてではなく、釘を打つために手元にあるものとして現れる。道具は他の道具との関係の網の目のなかで意味を帯び、その全体が世界という地平を作っている。他者もまた最初から共に在る存在として与えられている。
だが日常の私はたいてい固有の自分を生きていない。電車のなかで人々がそうするように私もそうする、皆が言うように私も言う。この匿名の主語が「ひと」である。おしゃべり、好奇心、曖昧さがその空気を満たし、現存在は自分自身から逃げ続ける。
第二篇で本来性への通路が開かれる。何ものでもない不安が突然訪れ、世界の意味の網が緩む瞬間がある。良心の声は誰かが告げるのではなく、自分の最も固有な可能性へと自分を呼び戻す。最終的に問題となるのが死である。誰も代わりに死ぬことはできず、死はいつでも私のものとしてやってくる。この「死へとかかわる存在」を引き受け、先駆して自分の有限性に立つとき、現存在は本来的な全体性を取り戻す。
結部で時間性が主題化される。未来から到来し、過去を取り戻し、現在を開く三重の運動こそが現存在の存在の意味である。本来は存在一般の意味へと進むはずだったが、書はここで途切れたまま閉じられる。