「生死の中に仏あれば、生死なし」
道元中世
道元が『正法眼蔵』「生死」巻に、中国の禅僧夾山と定山の問答の句を組み替えて記した言葉。
この言葉について
さらに深く
【出典】
この一句は道元の『正法眼蔵』「生死」巻の冒頭にある。道元はすぐ後に「こころは、夾山、定山といはれしふたりの禪師のことばなり」と書き、中国の禅僧である夾山(かっさん)と定山(じょうざん)の言葉だと明かしている。元の問答は『景徳伝灯録』巻7に見える。二人が連れ立って歩きながら話すうち、定山が、生死の中に仏がなければそれは生死ではない、と言い、夾山が「生死中有佛即不迷生死(生死の中に仏有れば、即ち生死に迷わず)」と応じた。二人は山に上って大梅法常(だいばいほうじょう)に参じ、夾山がどちらの見方が親しい(真に近い)かを尋ねると、一方は親しく一方は疎い、と答えられている。
【よくある誤解】
この句を、先人と関わりのない道元の独創としてだけ読むと、先人の言葉を読み直すという道元の書き方が見えなくなる。しかも並べ方が『景徳伝灯録』と違う。伝灯録では、仏が無ければ生死ではない、が定山、仏が有れば生死に迷わない、が夾山の言葉だが、道元は、仏あれば生死なし、仏なければ生死にまどはず、と組み合わせを入れ替えており、この書き換えは研究でも指摘されている。道元の主眼は続く文にある。生死の外に仏を求めるのは、車の轅を北に向けて南の越へ向かうようなものだとし、ただ生死がそのまま涅槃(迷いの消えた境地)だと心得て、生死として厭うべきものも涅槃として願うべきものもないとき、はじめて生死を離れる分がある、と説く。
【この言葉のその後】
この一節は、明治以降、経典の一節としても読まれるようになった。明治23年(1890年)、在家の信者への布教のために『正法眼蔵』の文言を5章31節にまとめた聖典が公布され、のちに改称されて曹洞宗の根本聖典とされている。在家の信者だけでなく僧侶にも、日常の経典として用いられているものである。その第1章「総序」は、生と死の意味を明らかにすることが仏者にとって最も大事な問題だと述べたすぐ後に、この句を置く。中国の二人の禅僧の問答は、道元の組み替えを経て、日々読誦される言葉にまで届いたのである。
この言葉を残した人物
「死」の名言
「人生は短くはない、我々がそれを短くしているのだ」
セネカが『人生の短さについて』で、人生が短いのは人が浪費するからだと説いた言葉。
「死に至る病、それは絶望である」
キルケゴールが偽名アンチ・クリマクスの名で出した『死に至る病』で、絶望をこう呼んだ言葉。
「哲学するとは、死ぬことを学ぶことである」
モンテーニュが『エセー』の章題に掲げ、キケロの言葉として引いた古代以来の格言。
「死への存在」
ハイデガーが『存在と時間』で、人間の存在のあり方を死との関わりからとらえた概念。
「死はわれわれにとって何ものでもない」
エピクロスが『メノイケウス宛の手紙』などで、死を恐れる理由はないと説いた言葉。
「すべてはたちまち色あせ、物語となる」
マルクス・アウレリウスが『自省録』第4巻で、名声のはかなさを見つめて書いた一節。