善悪は誰が決めるのか
ぜんあくは だれが きめるのか
道徳の基準は人間が作ったものか、それとも客観的に存在するのか
この問いについて
殺人は「悪い」ことである。しかし、なぜ悪いのか。法律で禁じられているからか。神がそう命じたからか。それとも、人間の本性に反するからか。善悪の基準は、どこから来るのだろうか。
【この問いの背景】
善悪の起源をめぐる問いは、宗教と哲学の両方で長く議論されてきた。プラトンは『エウテュプロン』で「敬虔なものは敬虔だから神々に愛されるのか、神々に愛されるから敬虔なのか」というジレンマを提示した。善悪に置き換えれば、その基準が神の命令から独立してあるのか、神の命令で決まるのかという問いになる。
【哲学者たちの答え】
■ ニーチェの『善悪の彼岸』
ニーチェは、善悪の概念は強者を抑制するために弱者が作り出したもの(奴隷道徳)だと主張した。また『ツァラトゥストラはこう語った』では、既存の価値を超えて新しい価値を創造する「超人」を説いた。
■ カントの「道徳法則」
カントは、善悪の基準は神や社会ではなく、理性そのものの中にあると考えた。理性的な存在であれば誰でも到達できる普遍的な道徳法則があるとし、それに従うことが善だとした。
■ 儒教の「仁」
孔子は「仁」(思いやりの心)などの徳を、学びと礼によって養うことを説いた。人間には生まれつき善への傾向(四端)があると主張したのは孟子である。
【あなたはどう考えるか】
もし善悪が人間の合意によって決まるものだとすれば、時代が変われば善悪も変わることになる。かつて当たり前だった奴隷制度は、今では悪とされている。善悪の基準は変わるものなのか、変わらないものなのか。
さらに深く
【問いの深層】
善悪の起源をめぐっては「道徳実在論」と「道徳反実在論」の対立がある。道徳実在論は、善悪は人間の意見とは無関係に客観的に存在すると主張する。「殺人は悪い」は「水は100度で沸騰する」と同じように客観的な事実だという立場だ。一方、道徳反実在論は、善悪が人間から独立した客観的な事実として存在することを否定する。どちらの立場にも難点があり、この議論は現在も続いている。構成主義や準実在論など、両極端を避ける中間的な立場も活発に提案されている。
【歴史的展開】
古代ギリシャではソフィストのトラシュマコスが「正義とは強者の利益だ」と主張し、ソクラテスと対立した。中世ではアクィナスが自然法論を展開し、善悪は神の理性に基づく永遠の法に由来すると論じた。近代にはホッブズが善悪を人間の欲望と嫌悪に還元し、ヒュームは道徳を感情(道徳感覚)に基づけた。ニーチェは既存の道徳の系譜を暴き、善悪の概念そのものの歴史性を示した。20世紀にはメタ倫理学が道徳的言明の性質を分析し、善悪の言葉が何を意味するのかを精密に検討している。進化倫理学は善悪の感覚の生物学的起源を探っている。文化人類学は善悪の多様性を記述しつつ、横断する普遍性の問題を突きつけてきた。
【さらに学ぶために】
ニーチェ『善悪の彼岸』は善悪の起源を根本から問い直した刺激的な著作である。プラトン『エウテュプロン』は敬虔とは何かをめぐる短い対話篇だが、善悪の基準の問題を考えるうえで今なお重要だ。マッキーの著書(Ethics: Inventing Right and Wrong)は道徳反実在論を強力に擁護した現代メタ倫理学の古典で、議論の土台を掴むのに役立つ。ニーチェ『道徳の系譜学』は、善悪概念の歴史的起源を暴く挑発的な系譜学として必読である。孟子の性善説と荀子の性悪説を対照させた中国古代の議論も、善悪の起源を考える比較の材料として示唆に富む。







