
ホメロス
Homer
紀元前800年 — 紀元前701年
『イリアス』『オデュッセイア』を詠んだ西洋文学の始祖
この人物について
西洋文学の原点にして最高峰とされる二大叙事詩を生み出した、古代ギリシアの伝説的詩人。
【代表的な著書・業績】
『イリアス』はトロイア戦争の第10年を舞台にアキレウスの怒りと栄光を描いた叙事詩であり、戦争の悲惨さと人間の尊厳を同時に歌い上げた。『オデュッセイア』はトロイア戦争後、故郷イタカに帰還するオデュッセウスの10年に及ぶ冒険を描き、知恵と忍耐を兼ね備えた英雄像を提示した。両作品はギリシア人の教育の基本テキストとなり、以後のあらゆる西洋文学に影響を与えた。
【思想・考え方】
人間の栄光と悲哀、運命と自由意志、名誉と死の関係を深く掘り下げ、短い生のなかで名誉を追求する英雄像と家庭に戻る慈愛に満ちた人間像の双方を描いた。神々でさえモイラ(運命)には逆らえないという世界観のもとで、有限な存在である人間が尊厳を保って生き抜く姿を謳い上げた。口承詩の定型句や反復を巧みに用いる語りの技法は、後世の西洋文学の修辞的伝統を決定づけた。
【特徴的な点】
実在の人物かさえ議論が分かれる伝説的存在であり、盲目の吟遊詩人として伝えられる。一人の作者の手によるものか複数の詩人の集合的仕事かをめぐる「ホメロス問題」が続いている。
【現代との接点】
英雄物語の原型として映画・小説・ゲームに影響を与え続け、人間の普遍的な感情や葛藤を描いた物語として読み継がれている。
さらに深く
【生涯と作品】
ホメロスの実像は確定していない。紀元前8世紀頃のイオニア地方、とりわけスミュルナやキオスを出自とする盲目の吟遊詩人という伝承が古代から流布してきたが、20世紀のミルマン・パリーとアルバート・ロードによる口承定型詩の研究は、詩句の定型性とフォーミュラの運用から、長大な叙事詩が文字なき時代の口演芸で成立しうることを実証した。このため現代の古典学では、複数世代の詩人の伝統のなかに「ホメロス」という名が結晶したとみる立場が有力である。いずれにせよ、『イリアス』と『オデュッセイア』の詩形と内容は後代の追加では説明しきれない高度な統一性を備えており、この統合を成し遂げた一人の編纂的詩人の存在は今も想定されている。
【作品の思想的核心】
『イリアス』はトロイア戦争の第十年のわずか五十一日間に焦点を絞り、冒頭の「アキレウスの怒りを歌え、女神よ」から最終巻の老王プリアモスの涙まで、名誉と喪失の弁証法を展開する。戦友パトロクロスの死を受けてヘクトルに報復するアキレウスが、敵王に嘆願された夜半に息子の遺体を返す場面は、古代文学における最も深い和解の瞬間である。『オデュッセイア』は帰還の叙事詩であり、智慧と忍耐で試練を超え、家族と王権を回復する過程が描かれる。両作は、死すべき者として生きる限界を正面から見据え、そのなかで勇気・賓客歓待・正義といった徳が輝くという人間観を打ち立てた。神々さえ運命には従うという世界像は、自由と必然の関係をめぐる西洋思想の最初の定式でもある。
【後世への影響】
ホメロスは古代ギリシアの教育の要をなし、プラトンが『国家』で詩人追放を論じたのも、その教化力が大きすぎるがゆえであった。アリストテレスは『詩学』で悲劇の理論モデルとして『イリアス』を用いた。ウェルギリウス『アエネーイス』からミルトン『失楽園』、ジョイス『ユリシーズ』、デレク・ウォルコット『オメロス』まで、西洋文学の大きな幹はホメロスへの応答として編まれてきた。英雄譚の構造はヒーロージャーニーとして映画・ゲームに引き継がれ、人類は今なお同じ物語のかたちを語り直している。
【さらに学ぶために】
松平千秋《まつだいらちあき》訳『イリアス』『オデュッセイア』が信頼できる定訳。研究書ではフィンレー『オデュッセウスの世界』、川島重成《かわしましげなり》『ホメーロス「イーリアス」の世界』が有益である。






