
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
Jorge Luis Borges
1899年 — 1986年
無限と迷宮の文学を創造したアルゼンチンの知の巨人
この人物について
図書館を宇宙に、迷宮を哲学に変えた20世紀アルゼンチン文学の魔術師。短編小説と哲学的随想の領域を塗り替えた作家である。
【代表的な著書・業績】
1944年の短編集『伝奇集』は『バベルの図書館』『八岐の園』など知的短編の宝庫であり、『エル・アレフ』は無限と永遠を主題にした傑作集である。晩年の『砂の本』も忘れがたく、詩集・随想集・世界文学への評論も多い。アルゼンチン国立図書館長を長く務め、ハーバード大学での講義『詩という仕事について』も名著として知られる。
【思想・考え方】
時間・無限・同一性・鏡・迷宮といった形而上学的テーマを、精緻な短編小説の形で探究し続けた。現実と虚構の境界を意図的に曖昧にし、架空の書物の書評や注解という手法でテキストがテキストを生むメタフィクションを確立した。すべての書物は一つの書物であり、すべての作家は一人の作家であるという普遍的図書館の夢想を、生涯を通じて語り続けた。
【特徴的な点】
遺伝的疾患により中年期以降に徐々に視力を失いながら、記憶と口述によって執筆を続けた。ノーベル文学賞を逃した20世紀最大の作家と評されつつも、その作品群は現代世界文学の地下水脈となっている。
【現代との接点】
ハイパーテキスト、仮想現実、ポストモダン文学の先駆者として、デジタル時代にこそ輝きを増す作家である。
さらに深く
【生涯と作品】
ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899〜1986)は、アルゼンチンのブエノスアイレスに弁護士で心理学者の父と翻訳家の母を両親として生まれた。父方の祖母がイングランド人であった家庭では英語とスペイン語が同時に飛び交い、父の書斎にある英語の大英百科事典と世界文学全集に幼少から没頭した。1914年、父の眼病治療のため一家で渡欧し、ジュネーヴのカルヴァン・カレッジでフランス語とドイツ語を学び、表現主義詩人やショーペンハウアー、カフカを原語で読み耽った。帰国後のウルトライスモ運動を経て短編作家へと転じ、1938年の頭部打撲に伴う敗血症からの回復期に新たな語りの文体を得た。父と同じ遺伝性の眼疾で徐々に視力を失い、1955年の完全失明とほぼ同時に、皮肉にもアルゼンチン国立図書館長に任命された。以後は母や秘書に口述筆記させながら、短編・詩・評論を書き継ぎ、1986年にジュネーヴで86歳の生涯を閉じた。
【作品の思想的核心】
ボルヘスの文学は、時間、無限、同一性、迷宮、鏡、夢という形而上学的主題を、短編という最小の形式のうちに凝縮した独自の世界である。『伝奇集』所収の『バベルの図書館』は、あらゆる可能な文字列を収めた無限の六角形回廊の図書館を描き、言語と宇宙と認識可能性の限界を重ねた。『八岐の園』は分岐する時間の並行宇宙を戦時スパイ小説の形式で提示した。『アレフ』は一点に宇宙の全体が同時に含まれる空間を描き、ダンテ的神秘主義と集合論的想像力を交差させる。架空の書物の書評、存在しない百科事典項目、翻訳を偽装した原作不在のテクストといった手法は、現実と虚構の境界を意図的にずらすメタフィクションの古典を形作った。長編小説を一作も書かなかったことは、彼自身が選び取った倫理的・美学的姿勢である。
【後世への影響】
ミシェル・フーコーは『言葉と物』冒頭でボルヘスの空想的分類から着想を得たと述べ、エーコ『薔薇の名前』は『バベルの図書館』への長大な応答である。カルヴィーノ、ピンチョン、ガルシア=マルケスらラテンアメリカ文学の爆発、ポストモダン文学、サイバーパンク、ハイパーテキスト理論の源泉として、その影は多方向に伸びている。ノーベル文学賞を受賞しなかった最大の作家の一人として繰り返し言及される。
【さらに学ぶために】
『伝奇集』が代表作として入手しやすい。『エル・アレフ』『続審問』も短編と評論の両輪を味わえる。無限と同一性をめぐる思考に知的快楽を覚える読者にとって、ボルヘスは最高の迷宮の案内人である。


