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入門編 · 問いから始まる旅 · 第10

神は存在するのか

深夜、ふと目が覚めて天井を見つめているとき、あるいは大切な人を失った直後の沈黙のなかで、ふいに「なぜ自分は今ここにいるのだろう」という問いが立ち上がってくることがあります。日本で暮らしていると、神という言葉はどこか遠く感じるかもしれません。けれども、世界の存在そのものへの驚きという形で、神をめぐる問いは私たちの足もとから何度でも立ち上がってきます。

なぜ何もないのではなく何かがあるのか

ライプニッツが立てたこの問いは、神の問いの究極形と言えます。宇宙が存在するのには理由があるはずだ、その理由は宇宙の外側になければならない、その外側こそ神と呼ばれる存在です。素朴に響くこの推論は、長い歴史のなかでさまざまな形に磨き上げられてきました。

中世のアンセルムスプロスロギオンのなかで、もっと大胆な議論を展開しました。神とは「それ以上に大きなものが考えられないもの」と定義する。もしそのような存在が観念のうちにしか存在しないなら、それより大きいもの、つまり実際にも存在するものが考えられてしまう。よって神は実在しなければならない、というわけです。これがいわゆる存在論的証明です。

神を証明しようとした試み

13世紀のトマス・アクィナス神学大全で、より経験に根ざした五つの道を提示しました。運動するものには動かす者が必要だ、原因の連鎖は無限にはさかのぼれない、偶然的な存在は必然的な存在に支えられている。世界の見える事実から、見えない神へとさかのぼるこの議論は、現代でも宇宙論的論証として議論の対象になっています。

17世紀のパスカルは、まったく違う角度から問題に近づきました。パンセの有名な「賭け」の議論では、神が存在するかどうかは理性では決定できないと認めたうえで、それでも信じる方が得だ、と論じます。信じて存在しなければ失うものはない、信じずに存在すれば失うものは無限です。実存の決断としての信仰は、ここから始まりました。

あなたは「世界が存在することそのものへの驚き」を、最近いつ感じましたか。その驚きは、何を求めていたのでしょう。

神なき世界をどう生きるか:ニーチェの宣言

19世紀の終わりにニーチェは、戦慄せんりつすべき診断を下しました。「神は死んだ。我々が神を殺したのだ」。これは無神論の宣言というより、文明の現状報告でした。ヨーロッパの道徳・芸術・学問の根を支えてきた最終的な意味の保証人が、もはや誰の心にも生きていません。けれども人々はその空白を直視せず、亡霊ぼうれいのような価値観の下で生き続けている、と。

神の死の後に何が来るのか。ニーチェは、人間が自ら価値を創造する超人の到来を待ちましたが、同時にニヒリズムの危険を見抜いてもいました。20世紀の実存主義・ポストモダン思想は、この空白とどう向き合うかという問いの上に建てられたと言ってよいでしょう。

信仰の跳躍:信じることの哲学

ニーチェと同じ19世紀のデンマークで、キルケゴールはまったく逆方向に進みました。神は理性で証明できないからこそ、信じることが意味を持つ。論理の階段が途切れた断崖だんがいから、それでも飛ぶこと、これを彼は「信仰の跳躍」と呼びました。死に至る病に記された絶望の分析は、神なき自己が自己と向き合いきれないという深い構造を描いています。

神は存在するか。哲学はこの問いに最終決着をつけませんでした。けれども、問い続けることで「自分は何を究極の支えにしているのか」が照らし出されていきます。次章では、その「自分」そのものに目を向けます。

→ 「神は存在するのか」を読む

→ 「なぜ世界は存在するのか」を読む

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