入門編 · 問いから始まる旅 · 第11章
自分とは誰なのか
朝、洗面台の鏡をのぞき込んだとき、ふっと「これは本当に自分か」と感じる瞬間はないでしょうか。十年前の写真を取り出してみると、もっと不思議な気持ちになります。細胞は入れ替わり、関心も変わり、付き合う友人も違う。それでも、写真の中の少年と今の自分は同一人物として扱われています。この「同じであること」の正体を、哲学はずっと問い続けてきました。
鏡に映る顔は本当に「私」か
自己の問題は、二つの方向から立ち上がります。一つは時間の方向。十年前の自分と今の自分はどんな意味で「同じ」なのか。もう一つは奥行きの方向。表に出ている性格・身体・記憶のどれを剥がしていけば、本当の自分にたどり着くのか。どちらも素朴に答えようとした瞬間に、地面が抜けるような感覚に襲われます。
現代の脳科学は、自己とはおそらく脳が一瞬ごとに編み直している統合的な錯覚にすぎないと示唆しています。ところが哲学は、この問題を脳の前から、つまりもっとずっと早くから抱え込んでいました。
我思うゆえに我ありの罠
17世紀のデカルトは、すべてを疑い抜いた末に「私は考える、ゆえに私は存在する」という確実性に到達しました。考えている当の私だけは疑いえません。彼はここから、思惟する実体としての精神と、空間に広がる実体としての身体という二元論を打ち立てます。
しかしこの「思惟する私」とは何者でしょう。デカルトは、それを実体、つまり独立に存在する一つの単純なものとみなしました。けれども本当に、私の意識は内側から見て「単純で連続した一つのもの」なのでしょうか。後の哲学者たちは、この前提を激しく揺さぶることになります。
束としての自己:ヒュームと仏教の響き合い
18世紀のヒュームは、自分の内側を内省するたびに、いつでも何らかの知覚に出会うけれども、知覚を持つ「私自身」には決して出会えない、と書きました。自己とは、絶え間なく流れる知覚の束にすぎないのではないか、と。これが知覚の束説と呼ばれる立場です。
驚くことに、これとよく似た発想は、その二千年以上前の東アジアにも存在していました。ブッダと弟子たちは、人間を色・受・想・行・識という五つの要素の集まりと分析し、その奥に固定した自己の核は見いだせない、と説きました。仏教哲学の無我の教えは、ヒュームと響き合いながら、苦しみからの解放という実践的な方向へ展開していきます。
目を閉じて自分の内側に注意を向けたとき、感情や思考の奥に、それを観ている「私自身」を直接つかまえることはできますか。
物語としての自己:私を語ることが私を作る
20世紀後半、自己論はもう一つ別の方向に進みました。マッキンタイアやリクールらは、自己とは生まれもった実体でも、知覚の束でもなく、人生を一つの物語として語り直す行為のうちに立ち上がるものだ、と考えました。私は今ここで、過去の出来事を選び、それらをある筋に沿って並べ、未来へ向かう方向を仮設する。その語りの主人公として、自己が事後的に立ち現れる、というのです。
身体の側から自己を捉え直したメルロ・ポンティもまた、自己とは「世界に向かって構えている身体」そのものであると論じました。鏡の中の顔への違和感は、そもそも自己が一枚岩ではないことを、内側から教えてくれているのかもしれません。次章では、その自己の終わりについて考えます。
問いから始まる旅 · 第11章