入門編 · 問いから始まる旅 · 第9章
知るとはどういうことか
昨夜の夢を思い出してみてください。妙にリアルで、起きた直後しばらく現実と区別できなかった瞬間はなかったでしょうか。映画「マトリックス」の主人公は、目の前のステーキの味も、街の雑踏の音も、すべてが脳に直接送り込まれた信号だと知らされて愕然とします。私たちが「知っている」と信じているこの世界は、本当に確かなものなのでしょうか。
夢と現実をどう区別するか
17世紀のデカルトはまさにこの問いから哲学を始めました。『省察』のなかで彼は、感覚は私を欺くことがある、夢と覚醒の境目は内側からは決定できない、もしかしたら全能の悪い霊が私の知覚すべてを偽造しているかもしれない、と疑いを徹底させていきます。
そこから彼が見つけたのは「私は疑っている、ゆえに私は存在する」という、それ自身を疑えない一点でした。すべての知識を更地から建て直す野心が、近代哲学の出発点になります。デカルトにとって、確実な知識は感覚ではなく、理性の内側に根を張るものでした。
生まれつき知っていることはあるか:合理論の挑戦
デカルトに連なる合理論は、人間には生得的な観念が備わっていると考えました。三角形の内角の和が二直角に等しいことを、私たちは紙に三角形を測りまくって発見したのではありません。理性のうちにあらかじめ含まれているものを、論証によって取り出しただけだ、というのです。
数学の確実さに憧れた合理論者たちは、世界の構造そのものが理性的に編まれていると信じました。神の知性のうちに永遠の真理があり、人間の理性はそのささやかな写しだ、というスピノザやライプニッツの世界像は、この発想の極北にあります。
すべては経験から来る:経験論の答え
海峡の向こうのイギリスでは、まったく別の伝統が育っていました。ロックは、生まれたばかりの人間の心は何も書かれていない白紙であり、経験こそがそこに文字を書き込んでいくのだ、と論じました。
スコットランドのヒュームは、この経験論を徹底し、因果関係そのものが経験から推論された習慣にすぎない、とまで言い切りました。太陽が明日も昇ると私たちが信じるのは、論理的に証明できるからではなく、これまで毎日昇ってきたからにすぎません。カントはこのヒュームの議論に揺さぶられて目覚め、合理論と経験論を統合する『純粋理性批判』に着手することになります。
あなたが今「知っている」と思っていることのうち、純粋に経験から来たものと、考えただけで分かったものを、区別できますか。
ゲティア問題:知っているとはどういうことか
現代の認識論は、もう一段細かい問いに進みました。古来「知識とは正当化された真なる信念である」と定義されてきました。けれども20世紀のゲティアは、たった三ページの論文でこの定義に穴を開けます。たまたま正しい結論にたどり着いた信念は、定義のすべての条件を満たしていても、私たちは「本当の知識」とは呼びたくありません。たとえば壊れた時計を見て「今は三時だ」と思い、たまたま本当に三時だった場合、それは「知っている」と言えるでしょうか。
ここから、信頼できるプロセスから生まれた信念だけが知識だとする「信頼性主義」など、さまざまな修正案が現れました。懐疑論から始まり、知るという素朴な動詞の内部構造を、現代哲学は今もほどき続けています。次章では、知の限界の向こう側、つまり神という究極の問いに向かいます。
問いから始まる旅 · 第9章