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入門編 · 近代哲学の展開 · 第31

啓蒙の時代

18世紀のパリ、貴婦人が主宰するサロンの広間で、哲学者・科学者・経済学者・劇作家・亡命英国人らが入り混じり、紅茶を片手に議論を戦わせていました。話題は宗教的寛容、新しい政治制度、経済の仕組み、奴隷貿易の是非。教会の説教でも王の勅令ちょくれいでもなく、対等な人間どうしが理性を持ち寄って世界を作り直そうとする空気が、ここから広がっていきます。これが啓蒙の世紀の風景でした。

理性の世紀

後にカントは啓蒙とは何かと問われて、こう答えます。啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から脱け出すことだ、と。未成年状態とは、他人の指導なしに自分の理性を使う勇気がない状態のこと。だから啓蒙のモットーは「あえて知れ、自分の理性を使う勇気を持て」となります。

啓蒙は単なる思想ではなく、ヨーロッパを覆う運動でした。フランスではディドロとダランベールが編集した百科全書が知識の地図を描き直し、迷信や教会権威を客観的記述で侵食しんしょくしていきます。ディドロたちの仕事は、検閲けんえつと発禁を繰り返されながらも、二十年以上をかけて全28巻として完成しました。書物が政治を動かす時代の幕開けです。

モンテスキュー:三権分立

ボルドーの法服貴族ほうふくきぞくモンテスキューは、若いころにペルシャ人の手紙という形式で当時のフランス社会を風刺し、後に大著法の精神を書き上げました。彼は世界各地の法と統治の形を地理・気候・風土と関連づけて比較しながら、自由を制度的に保障する仕組みを探ります。

答えの中心が、立法・行政・司法を分け、互いに抑制と均衡を働かせる三権分立でした。権力は集中するとかならず腐敗する。だから権力をもって権力を抑える設計が必要です。この発見はアメリカ合衆国憲法の骨格となり、近代民主制の標準装備として今日まで受け継がれています。自由主義の制度的基礎が、ここで据えられました。

ヴォルテールと寛容の戦い

啓蒙の代名詞ともいえるヴォルテールは、戯曲・小説・歴史書・パンフレットを書きまくり、生涯にわたって不寛容と戦いました。1762年、プロテスタントの商人カラスが、息子殺害のぎぬ車裂くるまざきの刑に処された事件が起きます。ヴォルテールは三年がかりで再審さいしんに持ち込み、無罪を勝ち取りました。この経験から書かれた寛容論は、宗教的不寛容こそ最大の悪だと訴えます。

風刺小説カンディードでは、ライプニッツの「最善世界論」をリスボン大地震や戦争の現実と突き合わせ、「すべてはうまくいっている」という楽観論を笑い飛ばしました。最後に主人公が見出すのは、形而上学的な答えではなく「自分の庭を耕すこと」というささやかな結論。啓蒙の理性は、世界を救う巨大な構想と、目の前の悲惨ひさんに手を差し伸べる地道さの両方を含んでいたのです。

あなたが「これは違う」と感じる社会の慣習を一つ思い浮かべてください。それを変えるために、あなたが今日できる小さな一歩は何でしょうか。

アダム・スミス:見えざる手と道徳感情

海峡の向こう、エディンバラとグラスゴーでも独自の啓蒙が進んでいました。倫理学教授だったアダム・スミスは、まず道徳感情論で、人間が他者の苦しみに共感し、心のうちの「公平な観察者」の視点から自分の行動を眺め直す仕組みを描きました。経済学の祖と呼ばれる彼の出発点は、利己心ではなく共感だったのです。

そのうえで国富論のなかで、各人が自分の利益を追求する市場が、結果として社会全体の富を増やしていく「見えざる手」の働きを論じました。パン屋がパンを焼くのは慈善心からではなく自分の暮らしのためだが、それが他者の食卓も支えます。注意したいのは、スミスにとって市場はあくまで道徳感情に支えられた制度であり、共感を欠いた利己心の暴走を肯定したわけではない、ということです。啓蒙の世紀はこうして、政治の自由と経済の自由、そして寛容の倫理を一つの地平に並べて見せました。次章ではこの理性の遺産を継ぎながら、それを根底から問い直したカントへと向かいます。