入門編 · 19〜20世紀の哲学 · 第32章
カント:批判哲学の革命
18世紀後半のケーニヒスベルク。規則正しい散歩で町の人々が時計を合わせていたと伝えられる一人の哲学教授が、ある夜、机の前で読書を中断したまま動けなくなったといいます。手にしていたのは、スコットランドから届いたヒュームの本でした。「原因と結果のつながりは、私たちが繰り返し経験してきた習慣にすぎない」。この一文が、合理論の伝統のなかで安心して仕事をしていたカントを、後年彼自身が「独断のまどろみから目覚めさせられた」と回想する経験へと突き落とします。
ヒュームの目覚めとコペルニクス的転回
ヒュームの懐疑が突きつけたのは、私たちが当然視している因果や自我や実体といった概念が、経験そのものから取り出せるのかという疑いでした。経験を観察し直してみると、そこには感覚の継起しか見つかりません。それなら数学や物理学の必然性はどこに根拠を持つのでしょうか。
カントが見出した答えは大胆なものでした。対象が認識に従うのではなく、認識のほうが対象を構成しているのだ、と。観察者が動かない地球から動く天空を見ていたのを、地球の運動として捉え直したコペルニクスのように、彼は哲学の視点そのものを反転させました。
私たちは何を知りうるか:純粋理性批判
『純粋理性批判』のなかでカントは、人間の認識が空間と時間という感性の形式と、量・質・関係・様相という悟性のカテゴリーをあらかじめ装備していることを示しました。私たちが見ている世界は、無加工の生のデータではなく、これらの枠を通って整えられた現象です。
だからこそ自然科学は普遍的な必然性を語れる。一方で、神や魂や宇宙全体のように経験の枠を超えるものについて、理性は確かなことを言えません。合理論と経験論のどちらか一方が正しいのではなく、両者の限界を見定めたうえで、知識が成り立つ条件そのものを明るみに出す。これが彼の超越論的な仕事でした。
私たちは何をなすべきか:定言命法
認識の限界を引いた次にカントが向かったのは、道徳の領域でした。『実践理性批判』では、自然法則に従う現象界とは別に、人間が自由な意志として振る舞う叡智界が描かれます。道徳法則は、結果の損得や個人の欲求からではなく、理性そのものが自分自身に与える命令から立ち上がる。
有名な定言命法は、「あなたの行為の格率が、同時に普遍的法則となることを意志しうるように行為せよ」と要求します。さらに別の定式では、「人間性をつねに目的として扱い、決して単なる手段としてのみ扱うな」とも語られます。義務論の現代的源流は、この峻厳な要求のなかにあります。
あなたが今日下した小さな決断を一つ思い出してください。その判断の根っこにあるルールを、世界中の誰もが採用してよいと心から望めるでしょうか。
私たちは何を望みうるか:判断力批判
晩年のカントは『判断力批判』で、認識と道徳のあいだに横たわる第三の領域、つまり美と自然の合目的性を扱いました。美しいものに出会うとき、私たちは概念に頼らずに普遍的な共感を求めている。自然のなかに目的のような秩序を見るとき、私たちは機械論を超えた何かを感じている。3つの批判は、それぞれが「知る」「なす」「望む」という人間の能力を限界づけながら、最終的には人間という存在そのものを問い直す壮大な体系を成しました。
カント以降、哲学はもう彼を経由せずには語れません。次章では、その遺産を受け取った若い世代が、観念論として一気に体系化していく流れを追っていきます。
19〜20世紀の哲学 · 第32章