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入門編 · 問いから始まる旅 · 第7

善悪はどこから来るのか

想像してみてください。仲のよい友人が浮気うわきをして配偶者はいぐうしゃから問い詰められたとき、あなたに「今夜は一緒にいたと言ってくれないか」と頼んできたとします。あなたはどうしますか。嘘をつけば友情は守られるかもしれません。けれど、嘘そのものが悪いのではないか。あるいは「私は嘘をつくような人間でありたくない」という違和感が立ち上がるかもしれません。

嘘をついてはいけないのはなぜか

「嘘はいけない」と言うとき、私たちはそれをどんな根拠で支えているのでしょう。多くの場合、答えは「だって、いけないものはいけないから」で終わってしまいます。けれども哲学はそこから始めます。同じ「嘘はいけない」という結論であっても、その理由づけは大きく三つに分かれます。結果を重視する立場、義務を重視する立場、そして人柄を重視する立場です。

結果がよければそれでいい?:功利主義の眼差し

18世紀のベンサムは、行為の善悪はその結果がもたらす快と苦の総量で測れると考えました。「最大多数の最大幸福」という標語で知られる功利主義の出発点です。19世紀のミルは、これに快の質的な高低を加えて功利主義として洗練させました。

浮気の嘘の場面に当てはめれば、功利主義者はこう考えます。嘘によって配偶者は深く傷つくかもしれないが、真実の暴露によって家庭が崩壊し子どもまで巻き込まれる被害が大きいなら、嘘の方がまだ少ない苦痛で済む。結果を冷静に天秤てんびんにかけるべきだ、というわけです。合理的に響く一方で、「友人一人を殺せば五人が助かる」場面でも殺人を是認しかねないという批判が、長く功利主義につきまとってきました。

それでも嘘はいけない:義務論の眼差し

カントはここで真っ向から反論します。嘘は結果がどうであれ悪い。なぜなら、嘘をつくとき私たちは相手を一個の理性的存在ではなく、操作の対象として扱っているからです。彼は道徳形而上学の基礎づけで、人間性をつねに目的として扱い、決して単なる手段として扱うな、と命じました。

義務論の眼差しは厳しい。たとえ友情のためでも、たとえ世界が幸福で満たされるとしても、嘘そのものが理性の自己矛盾だから禁じられます。カントは「殺人犯が逃走中の友人を追ってきて居場所を尋ねたら、それでも嘘をついてはならない」とまで書きました。極端だと感じるかもしれませんが、人間を操作の道具におとしめない、という芯はこの厳しさから来ています。

結果のよさで嘘を許すとき、あなたは相手の何を奪っていますか。あなたが嘘をつかれる側だったら、どう感じますか。

良い人になりたい:徳倫理の眼差し

第三の道は、ぐっと古い。アリストテレスニコマコス倫理学で、善悪をルールではなく人柄の問題として扱いました。問うべきは「この行為は規則に反するか」ではなく、「私はどんな人間になりたいか」だ、と。誠実、勇気、節度、友愛、こうした徳を習慣として身につけた人は、状況ごとに自然と適切な振る舞いを選びます。

浮気の嘘の場面に戻れば、徳倫理は機械的に答えを出しません。誠実な友人なら、相手の隠蔽工作に加担かたんするより、まず友人本人に向き合って「自分から話せ」と促すかもしれません。徳とは、ジレンマを解消する公式ではなく、ジレンマの只中で何が大切かを見抜く目を養うことです。現代では、マッキンタイアヌスバウムらがこの伝統を再評価しました。三つの眼差しは互いを完全には消し去れません。次章では、個人ではなく社会のレベルで「正しさ」を問います。

→ 「正しいとは何か」を読む

→ 「結果が良ければ正しいのか」を読む

問いから始まる旅 · 第7