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入門編 · 問いから始まる旅 · 第6

自由意志はあるのか

今朝、あなたはコーヒーにしましたか、それとも紅茶にしましたか。なんとなく手が伸びた、と感じたかもしれません。けれどもその「なんとなく」をよく見つめると、不思議な問いが立ち上がってきます。本当に選んだのは「あなた」なのでしょうか。それとも、前夜の睡眠の質、昨日の天気、子どものころにり込まれた家の匂いといった無数の原因が、今朝の選択をすでに決めていたのでしょうか。

朝のコーヒーを選んだのは「あなた」か

自由意志という言葉は大げさに響きますが、私たちは毎日それを暗黙に前提しています。誰かが約束を破れば責めますし、自分の進路に迷えば「自分の意思で決めたい」と願います。責任、後悔、誇り、こうした感情はすべて「別の選択もありえた」という前提のうえに成り立っています。

ところが脳科学者がfMRIで脳活動を計測すると、被験者が「右手を上げた」と意識する数百ミリ秒前に、すでに運動準備電位じゅんびでんいが立ち上がっています。意識は決断の主役ではなく、報告係なのかもしれない、という疑いがここから生まれます。

決定論の世界像:宇宙は時計仕掛けか

18世紀の物理学者ラプラスは、ある思考実験を提案しました。もし宇宙の全粒子の位置と速度を完全に把握する知性がいれば、その知性にとって過去も未来もすべて見通せる、と。これがいわゆるラプラスの悪魔です。世界が因果の鎖でできているなら、あなたの今朝の選択も138億年前のビッグバンの時点でとっくに決まっていたことになります。

スピノザはもっと早く、神すなわち自然の必然性のうちにすべてが含まれると論じました。エチカが描く世界像では、人間が自由だと感じるのは、自分を動かしている原因に気づいていないからにすぎません。自由とは無知の別名だ、というわけです。

自由意志を擁護する立場:選択の責任はどこから

一方、自由を世界の中心に据えた哲学者もいます。カントは、自然の因果に縛られる現象としての自分と、道徳法則を自分に英知的えいちてきな自分を区別しました。私たちが「嘘をつくべきでない」と理性で判断できるとき、その瞬間、自然法則の外側に立っています。自由とは、欲望に流されることではなく、理性に従って自分をりっすることなのです。

20世紀のサルトルはもっと過激でした。人間は本質に先立って実存する、つまり何者でもないところから始まり、選択の連続が自分を作る、と。彼は「人間は自由の刑に処されている」と書きました。逃げ道はありません。職場のせいにも、親のせいにも、社会のせいにもできません。今日の選択は丸ごと自分のものだ、というわけです。

あなたの昨日の後悔は、本当に「自分のせい」と言えますか。それとも、あの状況なら誰でもああなったと感じますか。

両立論の試み:科学と倫理の橋

現代の哲学者の多くは、決定論と自由意志を真正面から対立させない道を探っています。両立論と呼ばれる立場では、自由とは「因果から自由であること」ではなく「自分の欲求と価値観に沿って行為できること」と定義し直されます。おどされて金を渡すのと、自分の意思で寄付するのとは、たとえ両方が因果の産物であっても明らかに違う、というわけです。

答えは出ていません。ただ確かなのは、この問いをどう考えるかで、責任の取り方も、許しの意味も、教育の設計も変わってくる、ということです。次章では、その責任の中身、つまり善悪の根拠そのものに分け入っていきます。自由意志の詳細ページも合わせて覗いてみてください。

→ 「運命は決まっているのか」を読む

→ 「責任とは何か」を読む

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