入門編 · 問いから始まる旅 · 第8章
正しい社会とは何か
同じ大学を同じ年に卒業した二人がいるとします。一人は東京の大企業に就職して年収一千万円、もう一人は地方で介護の現場に立って年収三百万円。能力に大きな差があるわけではなく、選んだ道と運がそれぞれを違う場所に運んだだけです。この差は「公平な結果」でしょうか。それとも「補正されるべき不平等」でしょうか。社会の正しさをめぐる現代の議論は、まさにこのもやもやから始まります。
不平等はどこまで許されるのか
完全な平等を目指せば努力する動機が消え、放置すれば富める者がますます富む。古代から悩まれてきたこの綱引きを、20世紀後半のロールズは思考実験の力で組み直そうとしました。彼の主著『正義論』は、政治哲学を冬眠から目覚めさせた一冊として知られます。
ロールズが提示した問いは単純です。社会の基本ルールを、自分が誰になるか分からない状態で選ぶとしたら、あなたはどんなルールを支持しますか。お金持ちかもしれない、障がいを持って生まれるかもしれない、男性かもしれない女性かもしれません。そのすべてを知らされていない場面を想像せよ、というのです。
無知のヴェールの思考実験
この設定をロールズは「無知のヴェール」と呼びました。ヴェールの向こう側に立つ人は、自分の利害が分からないので、特定の階層に有利なルールを選ぶ理由がありません。彼が予測した合意は二つ。第一に、誰もが等しく基本的自由を持つこと。第二に、社会的・経済的な不平等は、最も恵まれない人々の境遇を改善する場合にのみ正当化されること。これが有名な格差原理です。
冒頭の二人の例に戻れば、年収差そのものが悪なのではありません。けれども、その差が介護労働者の暮らしを悪化させる方向に働くなら、社会は再分配でそれを補正すべきだ、ということになります。直観に訴える力強い枠組みでした。
自分が次にどの家庭・どの国・どの体に生まれるか分からないとしたら、あなたは今の社会のルールに賛成しますか。
自由か平等か:リバタリアンの反論
ロールズと同じハーバードで教えていたノージックは真っ向から反論しました。『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで彼は、人々が正当な手続きで得たものを政府が再分配するのは、たとえ平等の名のもとであっても強制労働に等しい、と主張します。バスケットボールの天才に観客が自発的にお金を払って試合を観に行った結果生まれる富の偏りは、誰にも文句を言う資格がない、というわけです。
自由を最大化すれば結果の不平等は避けがたい。平等を最大化すれば自由は削られます。20世紀後半の政治哲学は、この二つの極のあいだで振動してきました。リベラリズムの内部にも、「平等を重んじるリベラル」と「自由を重んじるリバタリアン」という大きな分岐があるのは、この緊張のためです。
ケイパビリティ:人が花開く条件
インドの経済学者で哲学者でもあるアマルティア・センは、議論の軸そのものをずらしました。配るべきは収入や財そのものではなく、「人がやりたいことをやれる能力」、つまりケイパビリティだ、と。同じ千円でも、健康な大人と難病の子どもとでは「実現できる生活」がまったく違う。資源の量だけでは正義は測れない、というわけです。
現代日本で介護や子育てに関わる人々が直面しているのは、収入の少なさだけではなく、選択肢そのものの細さでもあります。サンデルやヌスバウムらの議論もまた、この方向で正義論を更新し続けています。次章では、社会の正しさから足場を移して、私たちが何かを「知っている」ということの意味そのものを問い直します。
問いから始まる旅 · 第8章