専門編 · 近代の巨人 · 第59章
スピノザ:神即自然と自由
1656年7月27日、アムステルダムのポルトガル系シナゴーグで、24歳のバルーフ・デ・スピノザに最も厳しい破門状が読み上げられました。「昼も夜も、出るときも入るときも、彼は呪われよ」。共同体から永遠に切り離されたこの青年は、レンズ磨きで生計を立てながら、20年後に死後出版される『エチカ』を構想し始めます。本章は、その破門状から始めます。
破門と『神学・政治論』 — 政治批評家としての顔
破門の理由を史料は明示しません。聖書の権威を疑った、霊魂の不死を否定した、神を物体化した、と要約されますが、それ以上に共同体の存続を脅かす危険人物と見なされたのです。当時のオランダはユダヤ人を寛容に受け入れていましたが、共同体側はキリスト教社会との緊張を避けるため、内部の異端には厳しく臨まざるをえませんでした。スピノザは姓をベネディクトゥスと改め、新教徒の友人たちのもとで哲学の道を歩み始めます。
1670年、彼は匿名で『神学・政治論』を出版します。聖書を歴史的文書として批判的に読むこと、思想と発言の自由を国家が保障すべきこと、宗教的迷信が政治を破壊すること。この三つを論じた書物は、啓蒙思想を半世紀先取りした内容で、即座に発禁となりました。それでもオランダ各地に密かに広まり、ジョン・ロックやヴォルテールに重大な影響を与えていきます。スピノザは哲学者であると同時に、近代政治思想の先駆者でもありました。
幾何学的方法と『エチカ』のラディカリズム
『エチカ』は5部にわたって、定義・公理・定理・証明という幾何学の形式で書かれています。なぜこれほど異様な文体を選んだのか。スピノザにとって、世界は必然的な秩序に貫かれており、その秩序を語る言語は欲望や情緒に流されてはなりません。ユークリッドの『原論』のように冷静に必然性を辿ることだけが、真理に至る唯一の道だったのです。
彼の出発点は「実体は他のものに依存せず、それ自身で存在し理解されるもの」という定義です。この定義から論理的に唯一の実体しか存在しえないことが導かれ、それが「神あるいは自然」と名付けられます。デカルトが心と物を二つの実体として残したのに対し、スピノザは両者を唯一実体の二つの「属性」として一元化しました。「観念の秩序と連結は、事物の秩序と連結と同一である」と語る平行論は、心身問題に対する彼の独特の解答です。
コンナトゥスと感情の幾何学
第三部「情動の起源と本性について」は、しばしば「感情の幾何学」と呼ばれます。スピノザは喜び・悲しみ・欲望を三つの基本感情として定義し、嫉妬・羨望・恐怖など50近い派生感情をそこから機械的に導出しました。感情を文学的に描くのではなく、力学的に分析する。この発想は20世紀の心理学者たちが感情の認知理論を組み立てる際の遠い祖型となっています。
鍵となる概念がコンナトゥス、すなわち「あらゆるものは自己の存在を維持しようと努める」という根源的な傾向です。喜びはコンナトゥスの増大、悲しみはその減衰として説明される。外的原因に振り回される受動感情の状態を、自分の本性を原因として行為する能動状態に変えていくこと。これが第四部「人間の隷属」と第五部「人間の自由」を貫く倫理的課題でした。
ハイデルベルクの招聘と現代への余波
1673年、スピノザはハイデルベルク大学から教授職への招聘を受けます。ファルツ選帝侯は「公の宗教を擾乱しない範囲で」哲学する自由を保証すると申し出ました。スピノザは丁重に断ります。教授になれば、何を言ってよく何を言ってはならないかを他人に決められます。彼が選んだのは、レンズの粉塵を吸い続けながら自分の哲学を完成させる、貧しいが自由な生活でした。1677年、44歳で結核と思われる病で死去します。
死後に公刊された『エチカ』は、長らく無神論の書として葬られていましたが、18世紀末ドイツの汎神論論争でレッシングとヤコービの間に再発見され、ゲーテに「私はスピノザにすべてを負っている」と言わしめます。20世紀になるとアインシュタインが「私はスピノザの神を信じる」と宣言し、ドゥルーズはスピノザを「哲学者の中の哲学者」と呼びました。次章では、その百年後にケーニヒスベルクで認識の限界を引き直したカントの仕事に進みます。
近代の巨人 · 第59章