専門編 · 近代の巨人 · 第60章
カント:認識の限界を見極める
1781年5月、リガの書店から無名のケーニヒスベルク大学教授の大冊が届きます。難解すぎて誰も読み解けず、初版は売れ残りました。それは過去11年の沈黙のあいだに積み上げられた、800ページの『純粋理性批判』でした。本章では入門編を踏まえ、この書物の最も深い論理装置に踏み込みます。
沈黙の十年 — 1770年から1781年へ
1770年に46歳でケーニヒスベルク大学教授に就任したカントは、就任論文で華々しい仕事を見せた直後、研究室に閉じこもります。残された課題は明白でした。ヒュームの懐疑によって因果関係や実体の概念が経験から取り出せないと示された後で、なお自然科学の必然性を救うこと。形而上学が学として可能になる条件を、根本から立て直すことです。
そこから11年、まとまった論文はほとんど発表されません。1781年に完成した『純粋理性批判』は、800ページの異様な構築物でした。誰にも理解されないので、カントは1783年に簡略版『プロレゴーメナ』を出し、1787年には第二版で大幅な書き直しを行います。第二版の主役は、彼自身が「最も深く、最も困難な部分」と認めた超越論的演繹と図式論でした。
統覚 — 認識を貫く「私」
カテゴリーは悟性の側にあらかじめ用意された枠組みですが、それが感覚に与えられた素材に当てはまる保証はどこにあるのでしょうか。この問いに答えるのが「超越論的演繹」と呼ばれる第一批判の最深部です。バラバラに継起する音や色や匂いが「私が今これを聞いている」という意識のもとに統合されてはじめて、一つの経験となります。この自我の同一性をカントは「統覚の超越論的統一」と呼びました。
統覚が経験を一つにまとめるとき、感覚は必ずカテゴリーを通って整理される。だからこそカテゴリーは経験のあらゆる対象に必然的に妥当する、というのがカントの論証です。「私は考える、ということがあらゆる私の表象に伴いうるのでなければならない」という有名な定式は、デカルトのコギトが心理学的事実として語っていたものを、認識の論理的条件として再構築したものでした。
図式論 — カテゴリーと感覚をつなぐ秘密
ここでカントは難所に直面します。「実体」のような抽象的なカテゴリーは、目に見える対象とどうやって出会うのか。直観と概念のあいだには、本来何の架け橋もない裂け目があります。これを橋渡しするのが「図式」と呼ばれる時間的構造で、たとえば実体のカテゴリーは「時間のなかで持続する何か」として、原因のカテゴリーは「時間のなかで規則的に継起する何か」として図式化されます。
カント自身はこの図式論を「人間の魂の深部に隠された術であり、その真の手口を自然から引き出すのは恐らく不可能であろう」と書きました。哲学者が自分の論証の核心を「不可能であろう」と告白する場面はめったにありません。20世紀のハイデガーは、この一節こそカント哲学の最も重要な点だと読み、時間性の存在論として全面展開することになります。
アンチノミー — 理性が陥る幻
認識は経験の枠の中でしか成り立ちません。けれども理性は、経験を超えた全体を求めずにいられません。世界に始まりはあるか、最小単位はあるか、自由はあるか、必然的存在者はあるか。第一批判の後半「弁証論」で、カントはこれら4つのアンチノミーを示します。それぞれは、互いに対立する命題が同じ強さで証明されうるという奇妙な構造をもっています。
アンチノミーが告げるのは、理性が経験の限界を超えて使われるとき必ず矛盾に陥るという事実です。神も魂も宇宙全体も、思考することはできても認識することはできません。この発見は伝統的形而上学の墓碑銘であると同時に、道徳の領域に新しい地平を開きます。知の領域で理性が使えなくなった先で、自由をどう確保するか。次章では、義務と道徳法則をめぐる『実践理性批判』に進みます。
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