専門編 · 東アジアの深層 · 第99章
江戸思想:仁斎・徂徠・宣長
京都堀川。伊藤仁斎は1662年、35歳で「古義堂」を開いた在野の学者です。朱子学の精緻な理気論が中国哲学の正統だった時代に、彼は「『論語』を直接読み、孔子の生きた言葉を取り戻せ」と主張しました。江戸思想の独創性は、こうした既成権威への懐疑から始まります。本章では儒・国・蘭・志士の四つの思想潮流を辿ります。
古学運動 — 仁斎と徂徠
伊藤仁斎(1627-1705)の方法は、朱熹の注釈を取り払い『論語』『孟子』を「字義」に即して読む「古義学」です。彼の中心概念は「仁」を「愛の感情」として再解釈する温かい人間観でした。京都の町人町から生まれたこの学問は、商業都市の倫理として広く受容されます。
荻生徂徠(1666-1728)は江戸で別の方向に古学を展開しました。彼は『論語』の前にある「六経」(詩・書・礼・楽・易・春秋)こそが古聖人の教えの源だと主張し、儒教を君主が民を治めるための「先王の道」として再構成します。徂徠の方法論は「文辞学」、つまり古典中国語の歴史的読解を厳密に行う技法でした。これは丸山眞男が「日本における近代的思惟の原型」として高く評価した仕事です。
国学 — 賀茂真淵から本居宣長
徂徠の方法論を日本古典に応用したのが、賀茂真淵(1697-1769)と本居宣長(1730-1801)の国学運動でした。真淵は『万葉集』を「ますらおぶり(男々しい歌風)」として再評価し、宣長は『古事記』『源氏物語』に「もののあはれ」を見出しました。儒教的・仏教的な解釈を取り去り、日本古代の言葉そのものに耳を傾ける姿勢です。
宣長は34年かけて『古事記伝』を完成させました。これは『古事記』の漢字交じり文を、日本古代の発音と文法に即して厳密に解読する仕事です。「漢意(からごころ)」、つまり中国的合理主義の思考様式を取り去り、「やまとごころ」を回復する。この国学の遺産は、幕末・明治の日本人のアイデンティティ形成に決定的な影響を与えました。
蘭学と西洋知の流入
1774年、杉田玄白・前野良沢らが訳した『解体新書』は、江戸思想に新しい次元を導入します。オランダ経由で輸入されたヨーロッパの解剖学書を、漢字文化圏の医学概念で苦闘しながら翻訳した、東アジア初の本格的な西洋医学書でした。「神経」「動脈」「軟骨」といった訳語は、玄白らがこのときに造語したものです。
蘭学はやがて医学を超えて、天文学・地理学・物理学・化学・砲術にまで広がります。志筑忠雄暦象新書はニュートン物理学を日本に紹介し、緒方洪庵の適塾は福澤諭吉・大村益次郎・橋本左内など幕末維新の志士たちを育てました。儒学・国学・蘭学の三つは互いに排除しあいながら、江戸後期の知的地平を立体的に作り上げていきます。
幕末の思想 — 水戸学と吉田松陰
19世紀初頭、水戸藩で会沢正志斎が著した『新論』(1825)は、海外列強の脅威を背景に、天皇を中心とする国体論を打ち出しました。儒教的忠君思想と国学的天皇観を融合した水戸学は、明治維新の理論的下準備となります。藤田東湖の影響を受けた長州藩士たちが、その思想を行動に移しました。
吉田松陰(1830-1859)は萩の松下村塾で、わずか2年余りの間に高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋ら明治維新の中枢を育てました。彼自身は1854年にペリー艦隊への密航を試みて失敗し、5年後に29歳で処刑されます。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」。彼が残した辞世の歌は、明治国家の精神的源泉の一つとなりました。次章では、その明治日本における近代化と伝統の格闘を辿ります。
東アジアの深層 · 第99章