専門編 · 東アジアの深層 · 第100章
明治日本:近代と伝統のはざまで
1875年、明治6年に始まった日本最初の啓蒙学術団体「明六社」が解散します。森有礼が結成し、西周・福澤諭吉・西村茂樹・加藤弘之・中村正直・津田真道・箕作麟祥らが集った。彼らはたった2年余りの活動で、近代日本の知的基盤を整えていきました。本章では、明治の哲学者たちが西洋哲学をどう受容し、独自の思想を組み立てていったかを辿ります。
西周と「哲学」という訳語の発明
1862年、徳川幕府はオランダにエリート官僚を留学させました。その一人が西周(にしあまね、1829-1897)です。西はライデン大学でフィッセリングのもとで西洋哲学を学び、帰国後の1874年『百一新論』で「philosophy」を「哲学」と訳します。それまで日本語に存在しなかった「哲学」「主観」「客観」「概念」「演繹」「帰納」など、現代日本語の哲学用語のほとんどを西が造語しました。
西だけでなく、明治初期の知識人は西洋語の概念を漢字熟語で訳出する作業に追われました。「自由」(liberty)、「権利」(rights)、「義務」(duty)、「社会」(society)、「個人」(individual)。これらすべてが、明治期に新たに作られた、または旧来の漢語に新しい意味を与えた訳語です。漢字文化圏全体は、20世紀以降この日本製訳語を逆輸入することになります。
福澤諭吉と『学問のすゝめ』
明治期最大のベストセラー作家が福澤諭吉(1835-1901)でした。1872年から1876年にかけて出版された『学問のすゝめ』は、340万部を売り上げ、当時の人口の約10人に1人が手にした計算になります。冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、近代日本の平等観の出発点となりました。
福沢は1860年から1867年の間に三度欧米を訪問し、単なる技術的近代化ではなく、思考様式そのものの転換を主張しました。1875年の『文明論之概略』では、文明を「人の安楽と品位の進歩」と定義し、独立した個人の精神を文明の核心に据えます。彼が創設した慶應義塾は、官立とは異なる私学のモデルを作り、明治日本の自由主義的伝統を担いました。
中江兆民とルソー的民権論
中江兆民(1847-1901)は、福沢とは対照的にフランスに学び、ルソー『社会契約論』を漢訳で民約訳解として紹介しました。土佐藩出身で、自由民権運動の理論的支柱となり、衆議院議員にもなります。彼は議会政治を「上等社会の遊戯」と呼んで批判し、より深い民主主義の実現を求めました。
1900年に喉頭がんで余命1年半を宣告された兆民は、『一年有半』『続一年有半』を絶筆として書きます。「日本に哲学なし。本居・平田の徒は古陵に憑依する古書発掘者にすぎず、伊藤・荻生はただ漢学者なるのみ」。日本にまだ独自の哲学が存在しないと宣言したこの厳しい診断は、彼の弟子幸徳秋水たちの社会主義運動と、京都学派の哲学的探求の両方への課題状を残しました。
内村鑑三・新渡戸稲造 — キリスト教と武士道
明治のもう一つの思想潮流が、キリスト教と武士道の融合でした。内村鑑三(1861-1930)は札幌農学校でクラーク博士の影響下にキリスト教徒となり、生涯「無教会主義」を貫きます。1891年の不敬事件(教育勅語に最敬礼しなかった)で職を追われながら、彼は「二つのJ(JesusとJapan)」のために生きると宣言しました。
新渡戸稲造(1862-1933)の『武士道』は1900年に英文で出版され、世界に日本の倫理観を紹介します。鎌倉時代から徳川期に形成された武士の倫理を、キリスト教との比較を含めて分析した本書は、ルーズベルト大統領も愛読しました。武士道を西洋的近代と接続させようとするこの仕事は、近代日本のアイデンティティ表現の一つの典型でした。次章では、この明治日本が辿りついた京都学派の絶対無の哲学に進みます。
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