専門編 · 思想運動と流派 · 第90章
分析哲学:論理から日常言語へ
1903年のケンブリッジ大学。当時のイギリス哲学はヘーゲルから派生した英国観念論が支配していました。真理は全体性のうちにある、個別の事物の存在は幻にすぎない。25歳のG・E・ムーアと31歳のバートランド・ラッセルは、この巨大な体系に正面から反逆します。机は机である、それ以上でも以下でもない。本章はこの分析哲学の出発点から始めます。
フレーゲ・ラッセル・前期ウィトゲンシュタイン
分析哲学の誕生には、もう一人の準備者がいました。ドイツ・イェナ大学の数学者ゴットロープ・フレーゲです。1879年の『概念記法』で、彼は古代以来のアリストテレス論理学を超える、現代の述語論理を創始しました。ラッセルが1902年にフレーゲのパラドクス(集合の集合をめぐる矛盾)を発見したことから、フレーゲは絶望し晩年を孤独に送ります。
ラッセル自身は、ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』(1910-13)で、すべての数学を論理学に還元しようとする壮大なプロジェクトを進めました。ラッセルの弟子ウィトゲンシュタインは、第一次大戦の塹壕で書き上げた『論理哲学論考』(1921)で、「世界は事実の総体であり、命題はそれを写像する」という大胆な定式を提示します。論理的形式の発見が、現代哲学を一変させました。
ウィーン学団と論理実証主義
1920年代のウィーン。モーリッツ・シュリック、ルドルフ・カルナップ、オットー・ノイラート、クルト・ゲーデルらの哲学者・科学者・数学者が、毎週木曜日にカフェで集まっていました。彼らはウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を聖書のように読み込み、1929年に「科学的世界観」と題する有名なマニフェストを発表します。
論理実証主義の中心テーゼは「検証可能性原理」でした。意味のある命題は、原理的に検証可能なものに限られます。形而上学・神学・倫理学・美学は、意味を持たない疑似命題として切り捨てられます。ナチス政権の台頭でメンバーは多くが米国・英国に亡命し、論理実証主義はそのまま英米哲学の主流となりました。
日常言語学派 — オックスフォードへの転回
第二次大戦後のオックスフォードでは、別のスタイルの分析哲学が花開きます。ギルバート・ライル、ジョン・オースティン、ピーター・ストローソンらの「日常言語学派」は、論理実証主義の人工言語的アプローチを批判し、日常言語の使用に潜む豊かな区別を発掘していきました。
ライル『心の概念』(1949)は、デカルト的な心身二元論を「機械の中の幽霊」として批判し、心的概念の論理的振る舞いを分析することで解体しました。後期ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(1953)の「言語ゲーム」概念とも合流して、日常言語学派は1950-60年代の英米哲学の中心となります。
クワインとデイヴィッドソン — 経験論への挑戦
1951年、ハーバードのW・V・O・クワインは「経験論の二つのドグマ」と題する論文を発表しました。彼が解体しようとしたのは、論理実証主義の二つの基盤です。分析的命題と総合的命題の区別、そして個別の命題が個別の経験で検証されるという還元主義。これらをすべて拒否したクワインは、知識の総体は世界に対する一つの網であり、どこから修正してもよいと論じました。
クワインの弟子ドナルド・デイヴィッドソンは、この方向をさらに発展させ、意味の根本的不確定性、行為の理由としての因果性、心身関係の非法則的一元論などを展開します。20世紀末以降、クリプキ、デイヴィッド・ルイス、ティモシー・ウィリアムソン、ジェイソン・スタンレーらが、形而上学・認識論・言語哲学を相互浸透させながら、分析哲学を次の段階へ進めています。次章では、英米哲学のもう一つの主流、プラグマティズムを辿ります。
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