『哲学探究』
てつがく たんきゅう
ウィトゲンシュタイン·現代
「言語ゲーム」で哲学の問題を解消しようとした後期の主著
この著作について
ウィトゲンシュタインが晩年まで書き継ぎ、死後の1953年に遺稿として公刊された後期の主著。前期『論理哲学論考』を自己批判し、まったく異なる言語観を提示する。
【内容】
番号付きの断章が並ぶ独特の形式。冒頭、幼児が言葉を覚える場面の観察から出発し、言語の意味は辞書的定義や対象との対応ではなく、それが生活の中でどう使われるかにあると論じられる。この使用の具体的な形を「言語ゲーム」と呼び、さまざまなゲームの間には厳密な共通点ではなく「家族的類似性」があるにすぎないとした。独りの頭の中だけで意味を成り立たせる「私的言語」は不可能だ、という有名な議論も展開される。哲学の役割は、言語の誤用から生じる混乱を解きほぐす「治療」だと位置づけられる。
【影響と意義】
日常言語学派、後期分析哲学、語用論、文化人類学、認知科学にまで決定的な影響を与えた。「言語ゲーム」「家族的類似性」「生活形式」といった概念は人文社会科学の共通語彙となっている。
【なぜ今読むか】
「ライオンが話すことができたとしても、我々はそのライオンを理解できないだろう」など、印象的な思考実験が豊富。前期『論考』と読み比べると、一人の哲学者が自分の立場を根本から撤回し再構築する稀有な思想の旅を追体験できる。
さらに深く
【内容のあらまし】
冒頭、ウィトゲンシュタインはアウグスティヌス『告白』の一節を引く。幼児が大人の指さしを見て言葉を覚えるという素朴な情景である。彼は問う。これで本当に言葉の意味が説明できるだろうか。指さされた物が「これ」なのか、色なのか、形なのか、大人なのかは、すでに言語の使い方を共有していなければ決まらない。意味とは対象との対応ではなく、生活のなかでの使用である、という後期の核心テーゼが、この観察から立ち上がる。
続いて石工と助手の場面が描かれる。「板」「角材」「梁」と叫び、それに応じて石が運ばれる単純な言語ゲームが、徐々に複雑なゲームへと変奏されていく。子どもが数を覚える、命令する、報告する、冗談を言う、祈る。言葉のありようはこうした多様な活動と編み合わさっている。あらゆる言語ゲームに共通する本質はなく、せいぜい家族の顔のような部分的な似通い、家族的類似性があるだけだとされる。
中盤で規則に従うとはどういうことかが繰り返し問われる。プラス2を続ける単純な計算ですら、規則そのものが一意に未来を決めるわけではない。実際には共同体の慣行のなかで「同じように続ける」が成り立っているのである。ここから、独りの心のなかだけで意味を成り立たせる私的言語の不可能性が論じられる。痛みを表す語さえ、他者と共有された使い方の網に支えられて初めて働く。
後半は心の哲学の主題に移る。痛み、感覚、像、理解。これらは内側の劇場で進行する出来事ではなく、振る舞いと表現の場で姿を現すものだとされる。アヒルにもウサギにも見えるあの有名な図が登場し、見ることそのものに概念の働きが食い込んでいる様子が示される。哲学の役割は、新しい理論を建てることではなく、ハエ取り壺に閉じ込められたハエを外に出すように、言葉の混乱から私たちを解きほぐすことだ、と静かに語って閉じられる。