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「道の道とすべきは、常の道にあらず」

老子古代

老子の著とされる『老子』第1章冒頭の、語りうる道は恒常不変の道ではないと説く句。

知恵

この言葉について

言葉で語れるような道(タオ)は、本当の道ではないという、東洋哲学の根本的な洞察。

【背景】

『老子』(『道徳経』)の冒頭の一節。中国の伝承では老子は前6世紀の人とされるが、その人物像ははっきりせず、伝説上の人物とみる研究者もいる。現存する最古の写本は、前300年ごろの墓から出たものである。

【解釈】

究極の真理(道)は言語化した瞬間に本質が失われる。概念や定義で捉えようとすること自体が、真理を取り逃す。無為自然の姿勢でこそ道に近づける。

【現代への示唆】

すべてを言語化・数値化しようとする現代社会への問いかけ。言葉にできないものの中にこそ大切な真実があるかもしれない。

さらに深く

【出典】

『老子』(『道徳経』とも呼ばれる)第1章の冒頭である。通行本の原文は「道可道、非常道」(道の道とすべきは、常の道に非ず)で、道として語ることのできる道は、恒常不変の道ではない、という意味になる。1973年に湖南省長沙の馬王堆で、前168年に封じられた墓から二種の絹の写本が見つかり、そこではこの句が「道可道也、非恆道也」となっていた。通行本で「常」となっている字が、この写本では「恆」である。『老子』の注釈で知られる王弼は、語ることのできる道、名づけることのできる名は、事物を指し形を作るものであって、常なるものではない、だから語ることも名づけることもできない、と注している。

【よくある誤解】

この句を、言葉では言えない神秘的な真理一般を説くものとだけ読むと、句の作りを見落とす。冒頭の句の中で、「道」の字は三度、違う働きで現れる。最初と最後は名詞の道だが、真ん中の「可道」の道は、語ることのできる、という意味で読まれ、英語の研究でも、語られうる道と訳されている。また、この句は語れる道は常の道ではないと言っているのであって、言葉がまったく役に立たないと言っているのではない。『史記』によれば、老子自身、関所の役人に請われて、道と徳の意味を説く五千字あまりの書を残して去った。もっともその『史記』も、老子が誰であったかについては諸説を並べ、その真偽を世に知る者はいないと書いている。

【この言葉のその後】

言葉で道を語ることへの疑いは、道家のもう一つの基本文献である『荘子』にも見られる。知北遊篇では、無始という人物が、道は聞くことができず聞けばそれは道ではない、道は言うことができず言えばそれは道ではない、と語る。同じ篇では黄帝が、知る者は言わず、言う者は知らない、という『老子』第56章と同じ句を口にする。一方で、この逆説には皮肉も向けられた。唐の詩人白居易(772〜846年)は詩「老子を読む」で、言う者は黙っている知者に及ばないと老君から聞いたが、老君が知者だというのなら、なぜ自分で五千字もの文を書いたのか、とからかっている。語れないものを語るという緊張は、『老子』の読者が繰り返し向き合ってきた問題なのである。

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