「最大多数の最大幸福」
ベンサム近代
ベンサムが『統治論断片』の序文で、正と不正の尺度として掲げた功利主義の標語。
この言葉について
行為や制度の善し悪しを、それがもたらす幸福の総量で測ろうとする、功利主義を代表する標語である。
【背景】
ベンサムが1776年の『統治論断片』の序文で掲げた原理である。言い回しには先人の例がある。のちの『道徳と立法の原理序説』(1789年刊)では「功利性の原理」が中心の語となり、晩年のベンサムはこの言い方そのものも改めている。
【解釈】
快楽を増やし苦痛を減らすことが善であり、個人ではなく社会全体の幸福の最大化を目指す。旧来の法制度や慣習を合理的に改革するための基準として提唱された。
【現代への示唆】
トロッコ問題や公共政策の評価など、現代の倫理的議論の多くが功利主義的な発想に基づいている。
さらに深く
【出典】
ベンサムはこの言葉を確かに書いている。功利性の提唱者として初めて世に出た1776年の『統治論断片』の序文で、「正と不正の尺度となるのは最大多数の最大幸福である」という一文を「根本公理」として掲げた。原文は「it is the greatest happiness of the greatest number that is the measure of right and wrong」である。ただし、ハチスンはすでに1725年の著作で、最大多数に最大の幸福をもたらす行為が最善だと書いていた。ベンサムはこの先例を知らず、プリーストリーから得たと記憶違いをすることもあったが、イタリアの法改革者ベッカリーアの『犯罪と刑罰』(1764年)から得たとも述べている。
【よくある誤解】
この標語は「多数派の幸福のためなら少数派を犠牲にしてよい」という意味に取られやすい。だがその危うさに向き合ったのはベンサム自身だった。彼は、この定式が多数派の幸福を増すために少数派へ過大な犠牲を強いることを正当化しかねないと気づき、共同体を多数派と少数派に分けて少数派の感情を勘定から外せば、全体の幸福はむしろ損失になると論じた。そこで1829年の「功利主義に関する論文」では、自説の改良として、この定式に代わる「最大幸福原理」を挙げている。1822年に『道徳と立法の原理序説』に加えた注でも、利害が関わるすべての人の最大幸福を正しい目的とする原理だと言い直している。
【この言葉のその後】
ベンサムの原理はJ・S・ミルの『功利主義論』に受け継がれた。ミルは第2章で、道徳の基礎として「功利性、すなわち最大幸福原理」を受け入れる立場を、行為は幸福を増す傾向に比例して正しく、幸福の反対を生む傾向に比例して不正であるとするもの、と定式化した。また、ベンサムが快楽や苦痛の価値を強さ、持続、確実さ、近さといった次元で測ろうとした方法は、彼自身は使わなかった「幸福計算」という名で知られ、経済学の分野では費用便益分析に基づく政策づくりの土台となった。
この言葉を残した人物
「道徳」の名言
「人生に意味を問うのではなく、人生から問われていることに答えよ」
フランクルが『夜と霧』で、生きる意味への問いを転換すべきだと説いた考えを要約した言葉。
「人間を手段としてのみ扱うな、常に同時に目的として扱え」
カントが『人倫の形而上学の基礎づけ』で示した、人間性を単なる手段として扱うことを禁じる定式。
「不正を行うよりも、不正を受ける方がよい」
プラトンが対話篇『ゴルギアス』に記した、ソクラテスが不正を行うことこそ最大の悪だとして語る言葉。
「正義の原理は、無知のヴェールの背後で選ばれる」
ロールズが『正義論』で、正義の原理を選ぶ人々から自分の立場の知識を奪う仕掛けを述べた一文。
「悪の凡庸さ」
アーレントが『エルサレムのアイヒマン』の副題に掲げ、アイヒマンの人柄と動機を言い表した言葉。
「汝の意志の格率が常に普遍的立法の原理として妥当するよう行為せよ」
カントが『実践理性批判』で純粋実践理性の根本法則として示した、定言命法の定式。