「人間は自由の刑に処せられている」
サルトル現代
サルトルが『実存主義とは何か』で、言い訳なしに選び続ける人間の条件を表した言葉。
この言葉について
人間は望むと望まざるとにかかわらず自由であり、その自由から逃れることはできないという実存主義の根本命題。
【背景】
サルトルが1945年末の講演をもとにした『実存主義とは何か』(1946年)で述べた言葉。考え自体は1943年の『存在と無』にすでにある。第二次世界大戦後、人々が既存の価値観を失い自分で選択を迫られる時代に響いた。
【解釈】
人間はまず存在し、何者であるかは後から自分の選択で決まる(実存は本質に先立つ)。「自由の刑」とは、選ばないことすら一つの選択であり、その重さから降りられないことを指す。
【現代への示唆】
進路や生き方の選択肢が増えた現代、自由であることの重さと、言い訳できない責任を自覚することの大切さを教えている。
さらに深く
【出典】
本人の著作にある。広く知られているのは、1945年の終わりにパリで行った講演を翌1946年に本にした『実存主義とは何か』の一節である。神が存在しないなら、私たちの行いを正当化してくれる価値も命令も無く、人は言い訳なしに一人で残される。その結論として、サルトルは人間は自由の刑に処せられていると言う。フランス語では l'homme est condamné à être libre(ロム・エ・コンダネ・ア・エートル・リーブル、人間は自由であるべく刑を宣告されている)である。同じ考えは、すでに1943年の主著『存在と無』にあり、そこでは意識をもつ人間のあり方(対自)が、自由へと刑を宣告され、永遠に自分を選び、自分を作り続けなければならないものとして定義されている。
【よくある誤解】
自由と聞くと好きなことができる状態を思い浮かべやすいが、サルトルの自由は望むものを手に入れる力ではない。『存在と無』は、自由であるとは望んだものを得ることではなく、自分で自分を決めて望むことであり、成功は自由にとって重要ではない、と言う。刑という言い方は、人は自分を創ったわけではないのに、世界に投げ出された瞬間から自分のするすべてに責任を負う、という意味である。講演でサルトルは、実存主義者は情熱の力を信じない、人は自分の情熱にも責任があると考える、と述べている。自由は特権ではなく、逃げ場のない条件として語られている。
【この言葉のその後】
講演には何千人ものパリ市民が詰めかけ、2年前に出た難解な『存在と無』の考えを分かりやすく伝える役目を果たした。一方で後年の2巻の大著『弁証法的理性批判』(1960年)では、物質的、経済的な欠乏が人々を互いに競わせ、出来事や歴史を外から降りかかるものと感じさせる面を詳しく論じた。そこでは他者は、まなざしだけでなく、社会の過程の積み重なりを通じて生み出されるとされ、『存在と無』の一対一の意識の関係から、社会の次元へと焦点が移されている。人は状況の力、サルトルの言う怪物的な力に押されていると感じる、という分析である。
この言葉を残した人物
サルトルのほかの名言
「自由」の名言
「私には夢がある」
キング牧師が1963年のワシントン大行進の演説で、人種差別の撤廃と平等を訴えた言葉。
「人間は生まれながらにして自由である、しかしいたるところで鎖につながれている」
ルソーが『社会契約論』第1編第1章の書き出しで、自由と拘束の矛盾を示した言葉。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
ボーヴォワールが『第二の性』第2巻の冒頭で、女性のあり方は作られると示した一文。
「自分自身の知性を使う勇気を持て」
カントが論文「啓蒙とは何かという問いへの答え」で、啓蒙の標語として掲げた言葉。
「簡素に、簡素に、簡素に生きよ」
ソローが『森の生活』で、用事を減らして生活の本質に向き合う暮らしを説いた一節。
「他人に不正をはたらく手先になれと求める法なら、法を破れ」
ソローが論考『市民の反抗』で、人を不正の手先にさせる法なら破れと説いた一文。