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弁

『弁証法的理性批判』

べんしょうほうてきりせいひはん

現代

実存主義とマルクス主義の統合を試みた後期サルトルの主著

哲学社会思想

この著作について

1960年刊。『存在と無』の実存主義的現象学を、歴史と集団の次元へ拡張し、マルクス主義と統合しようとしたサルトル後期の大著。

【内容】

本書はまず、「方法の問題」と題された長大な序論(単行本でも出版)で、マルクス主義を「われわれの時代の乗り越えがたい哲学」と位置づけつつも、個人の実存を消去した現行のマルクス主義を批判する。その上で、人間の実践(プラクシス)が物質的条件のもとで疎外される過程を、「実践的惰性態」「系列性」「融合集団」「誓約」「制度」といった概念で段階的に描き出す。1789年のバスティーユ襲撃が、孤立した個人の系列を融合集団へ転換させる典型例として分析される。第二巻(未完・死後刊行)では、スターリン主義の歴史的必然性をめぐる問題に切り込んでいる。

【影響と意義】

ルイ・アルチュセール、メルロ=ポンティ、フレドリック・ジェイムソン、ベネディクト・アンダーソンら後続世代に、集団形成と歴史の哲学として深い影響を与えた。

【なぜ今読むか】

デモ・社会運動・連帯の理論的基礎として、今なお参照される古典である。

さらに深く

【内容のあらまし】

1960年に出た第1巻(副題「実践的総体の理論」)は、論文「方法の問題」を冒頭に置き、本論が続く。

「方法の問題」でサルトルは、17世紀から20世紀に哲学が新しく生まれた時期は三度しかなく、デカルトとロック、カントとヘーゲル、マルクスの時期だと言う。マルクス主義を乗り越えられないのは、それを生んだ状況をまだ乗り越えていないからだ。実存主義は、かつて知に逆らい今はそこに組み込まれようとする、知の周縁に寄生したイデオロギーにすぎない。だがマルクス主義は、包囲され孤立したソ連が工業化に突き進んだころから止まってしまった。その欠陥を、彼は二つの文に込める。ヴァレリーがプチブルの知識人であることは疑いない。だが、プチブルの知識人がみなヴァレリーなのではない。媒介として精神分析や社会学を使い、フローベールの小説を作家が幼年期を通して生きた現実へ送り返して読む前進的・遡行的方法を示す。

序では、方法が前提とする唯物弁証法が成り立つのかを問い直し、弁証法的理性があるなら人間の実践のなかで示されるはずで、自然の弁証法は形而上学的な仮説にとどまると言う。歴史に恐ろしい矛盾を強いるのは弁証法という力ではなく、稀少性と必要に支配されて向き合う人間たちだという。第一の書は個人の実践から出発し、働きかけが物に沈んで逆に人を縛る実践的惰性態へ進む。その例が、サン=ジェルマン広場の教会前でバスを待つ人々だ。年齢も性別も階級も違うかもしれない彼らは、互いに口をきかず、たいてい顔も見ない。バスが遅れたり混みすぎたりすれば、取り替えのきく彼らは競争相手に変わりうる。

第二の書では、1789年7月8日、ミラボーはパリとヴェルサイユに3万5千の兵がいると議会に報告し、12日の朝、町は国王の命による貼り紙で埋まる。人々はその包囲をまだ散り散りの系列のまま生きる。約束された武器の箱からぼろ布が出てきたとき、群衆はだまされたと感じ、系列は融合集団へ溶け合う。60の教会で誰もが演説していたという証言を引いて、サルトルは町が融合集団になったと書く。集団は融合集団、誓約集団、組織、制度に分けて分析され、友愛と恐怖の力学は自発的な集団にも誓約集団にも制度にも現れる。制度では主権者が生まれ、官僚制と、仲間どうしの疑いからくる恐怖が広がる。権力という抽象的な水準で見れば、社会主義建設の最初の局面は官僚制と恐怖と個人崇拝の結びつきでしかありえなかったと述べ、その局面は終わりに近いようだと見る。巻末で探究は、全体化する者のいない全体化という問いに行き着き、歴史の意味を問う作業は次の巻へ送られる。

著者

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