
トマス・モア
Thomas More
1478年 — 1535年
理想社会『ユートピア』を構想したルネサンスの人文主義者
この人物について
『ユートピア』という言葉そのものを生み出し、理想社会の構想を通じて現実社会を批判したイングランドの人文主義者・政治家。
【代表的な思想】
■ 『ユートピア』
架空の島国ユートピアにおける理想的な社会制度を描写。私有財産の廃止、労働時間の短縮、宗教的寛容などを構想し、当時のイングランドの社会矛盾を間接的に批判した。
■ 人文主義と信仰の統合
エラスムスと親交を結び、古典古代の学問とキリスト教信仰の調和を追求した。学問による人間の向上を信じるルネサンス的教養人。
■ 信仰のための殉教
ヘンリー8世の離婚と英国国教会の設立に反対し、大法官の地位を失い処刑された。信念を貫いた姿勢は後にカトリック教会から聖人に列せられた。
【特徴的な点】
政治家として権力の中枢にありながら、権力に妥協しなかった稀有な知識人。『ユートピア』は「どこにもない場所」を意味するギリシア語からの造語である。
【現代との接点】
ユートピア思想は社会改革運動やSFの源流となった。理想社会を構想すること自体が現実批判の手段となるという発想は今も有効である。
さらに深く
【思想の形成】
トマス・モアは1478年、ロンドンの法曹一家に生まれた。カンタベリー大司教モートンの家童《かどう》として少年時代を過ごし、オックスフォード大学で古典を学んだが、父の意向で2年ほどで離れて法曹の修業に入った。法廷弁護士となったのち、ロンドン市壁の外のカルトゥジオ会修道院のそばに住んで修道士たちの修行に加わり、一時は修道士になることも考えたが、俗人にとどまって1504年に議会入りする。ルネサンス人文主義との決定的な出会いは、1499年に訪英したエラスムスとの親交であった。二人はギリシア語で書いた風刺作家ルキアノスの作品をラテン語に訳し、古典古代とキリスト教を接続する学問的運動の中核を担った。『愚神礼讃』はモアの家で執筆されたと言われる。法律家として成功する一方で、毛の下着を身につけ鞭打ちの修行を続けるなど、公的キャリアと修道的内面が共存する独特の人物像が形作られた。
【思想的意義】
1516年ルーヴァンで刊行された『ユートピア』はラテン語で書かれ、第一巻で当時のイングランドの貧困と囲い込みを批判し、「羊が人間を食う」と告発する。第二巻では架空の島国の制度が描かれ、私有財産を持たず六時間労働で共同に暮らす社会像が示される。これは単なる空想ではなく、ロンドン市の副シェリフとして実務に当たったモアが、個人の悪意ではなく社会構造の悪を可視化するための思考実験であった。同時に、人間本性への懐疑から理想社会をあえて「どこにもない場所」と名づけた点に、カトリック的原罪観と人文主義的楽観の緊張が刻まれている。良心と国家の衝突は、彼自身の晩年に現実として立ち現れることになる。
【影響と継承】
『ユートピア』は普通名詞となり、カンパネッラ『太陽の都』、ベーコン『ニュー・アトランティス』、サン=シモンやフーリエの空想的社会主義、ウィリアム・モリス『ユートピアだより』へと連なる思想系譜を生み出した。二十世紀にはオーウェル『1984』やハクスリー『すばらしい新世界』といったディストピア文学と対をなす参照枠となり、SFやシティプランニングの想像力にも波及している。ロバート・ボルトの戯曲「A Man for All Seasons」(映画化の邦題は「わが命つきるとも」)はモアを良心の守護者として描き、個人と国家権力の対立を現代的主題に再活性化させた。
【さらに学ぶために】
平井正穂《ひらいまさお》訳『ユートピア』が定番で、澤田昭夫《さわだあきお》ほか編『トマス・モアとその時代』は手堅い一冊である。エラスムス『愚神礼讃』、カンパネッラ『太陽の都』と連読すると、ルネサンス人文主義の地図が描ける。



