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痴愚神礼讃

ちぐしん らいさん

エラスムス·近代

愚かさを讃える形式で権威を風刺した人文主義の傑作

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文学

この著作について

ロンドンのトマス・モア邸に滞在中のエラスムスが16世紀初頭にわずか一週間で書き上げたとされる、ルネサンス人文主義の風刺的傑作。

【内容】

擬人化された「痴愚(モリア)」の女神が自ら講壇に立ち、自分自身を讃美する長い独白。彼女の主張によれば、人が恋をするのも、結婚し子を育てるのも、学者が研究に没頭するのも、国家が戦争をするのも、宗教者が敬虔に祈るのも、すべて痴愚なしには成り立たない。批判の対象は詩人・法律家・哲学者・神学者・修道士・司教・枢機卿・教皇へと階段状に上昇し、最後にはキリスト教信仰そのものが究極の「聖なる痴愚」として逆説的に讃えられる。

【影響と意義】

皮肉と笑いで権威を批判する知的ユーモアの形式を完成させた書物で、宗教改革前夜の教会批判の知的土壌を形成した。真正面から対立せず、相手に語らせながらその矛盾を露わにする戦略は、のちにスウィフト、ヴォルテール、フロベールといった風刺の系譜へ受け継がれ、近代ヨーロッパ言論文化の重要な遺産となった。

【なぜ今読むか】

書名がそのまま友人モア(More)の名と響き合う洒落など、遊び心に満ちた文体が今も古びない。権威を真正面から否定しにくい社会で、いかに笑いと逆説で批判を成り立たせるかの教科書として、現代の表現者にも多くの示唆を与える。

さらに深く

【内容のあらまし】

書は友人モアに宛てた献辞から始まる。エラスムスは執筆の経緯を、イタリアからの帰路、馬上で退屈しのぎに着想したと茶化し、わずか一週間でモアの邸宅で書き上げたことを語る。本文に入ると、舞台はにわかに講壇へと移る。道化の冠をかぶり鈴のついた衣装をまとった「痴愚」の女神モリアが、満場の聴衆を前に演説を始める。彼女は自分の名を堂々と名乗り、誰も自分を讃えてくれないなら自分で自分を讃えると宣言する。

前半では、痴愚が人間生活全般にいかに不可欠かが、滑稽な勢いで列挙されていく。子作りも結婚も友情も、もし人がよく考えたうえで判断するなら誰もしない。だから恋愛と結婚は痴愚の贈り物である。子供の無邪気さ、若者の浮かれ、老人の繰り返し話、酒と宴会の楽しさ、すべてが痴愚なしには成立しない。さらに国家も戦争も、過去の栄光に酔って互いに殺し合う痴愚の祭りだとされる。

中盤で批判の矛先は知識人と聖職者に向かう。文法学者は粗悪な辞書のうえで一生を送り、詩人は自分の名声に酔い、法律家は同じ書類を百倍に膨らませて報酬を得る。哲学者は、実際には何も実物を見ないまま天体や原子を語り、神学者は針の上で何人の天使が踊れるかといった珍問を真剣に議論している。修道士は規則の細部に固執して魂を忘れ、司教は牧杖と指輪と十字架の重さに苦しみ、枢機卿と教皇は最も贅沢な生活で最も貧しい教えを説いている。

後半で論調が転調する。痴愚はキリスト教そのものを引き合いに出す。福音書の説く幸いはこの世の知者から見れば愚かさそのものであり、子供のようでなければ天国に入れないと言われ、十字架は躓きであり愚かさである、と。聖パウロでさえ「キリストのために愚かな者となった」と書いている。だから真の信仰とは究極の痴愚であり、聖人と神秘家が陶酔のうちに自我を忘れて神と一致するその経験は、最高の狂気にほかならない、と。

演説の最後で痴愚は、自分の言葉を覚えていてくれと聴衆に頼むが、もし覚えていなければなお良い、それこそ痴愚の証である、と笑って退場する。風刺と霊性が滑らかに同居したまま、書は幕を閉じる。

著者

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