『すばらしい新世界』
すばらしいしんせかい
オルダス・ハクスリー·現代
管理された幸福の未来社会を描いたハクスリーのディストピア古典
この著作について
オルダス・ハクスリーが1932年に発表したディストピア小説。『1984年』『われら』と並ぶ20世紀三大ディストピア小説の一つで、高度に発達した生物学と心理学によって「共同体・同一性・安定」を実現した未来社会を描く。
【内容】
紀元後2540年のロンドン。人間は人工授精と条件付けによって階級別に製造され、快楽薬「ソーマ」と絶え間ない消費・性的快楽によって不満のない生活を送っている。野蛮人居留地で育った異端児ジョンは、シェイクスピア全集を読んで育った男として文明世界に連れてこられるが、「幸福」以外の一切を剥奪された社会の空虚さに耐えられなくなっていく。痛み・老い・宗教・芸術を失う代償として手に入れた「幸福」の不気味さが主題となる。
【影響と意義】
20世紀後半のバイオ倫理・生命科学批判・メディア批判の出発点として参照され続ける。1958年の『すばらしい新世界再訪』では世界が当初の予想よりはるかに速く小説の世界に近づいていると著者自身が結論づけた。トマス・モアの『ユートピア』との対比も繰り返し論じられる。
【なぜ今読むか】
遺伝子編集・行動予測・依存性の高いSNSといった現代技術の行く先を、90年以上前に鋭く予見した物語。
どの訳で読むか
著者自身が新しい版に寄せた前書き、解説、年譜まで1冊で読みたいなら黒原訳が目安になる。ここに挙げた中でいちばん新しいのは2017年の大森訳で、訳者は、いま読まれるSFとして違和感のない文章を目指したと語っている。1974年から講談社文庫で出ている松村訳もある。
松村達雄訳講談社・講談社文庫、1974年
Amazonで探す316ページ。著者名はハックスリーと表記される。版元の紹介文は、この作品を諧謔と皮肉の文体で描いた文明論的SF小説と紹介している。
黒原敏行訳光文社・光文社古典新訳文庫、2013年
Amazonで探す著者が新しい版に寄せた前書きを訳して収め、植松靖夫の解説、年譜、訳者あとがきがつく。440ページ。電子書籍もある。
大森望訳早川書房・ハヤカワepi文庫、2017年
Amazonで探す書名に〔新訳版〕とつく。384ページ。版元の紹介文は、世界国家の標語を「共生・個性・安定」と書いている。訳者はのちのインタビューで、ディストピア小説の古典だからではなく、いま読まれるSFとして違和感のないものにしようとしたと語っている。
さらに深く
【内容のあらまし】
全18章は、34階建ての灰色のビルから始まる。玄関には「中央ロンドン孵化《ふか》・条件づけセンター」の文字と、世界国家の標語「Community, Identity, Stability(共同体、同一性、安定)」が掲げられている。読者は、新入生を案内する所長の後ろを歩く。一つの卵から最大96人の同じ人間をつくるボカノフスキー法は、ガンマ以下の階級にだけ使われる。瓶の中で育つ胎児を見たあとは育児室で、八か月のデルタの赤ん坊がバラと絵本にはい寄ると、爆音とサイレンが鳴り、電気ショックが与えられる。これを200回繰り返せば、本と花を一生嫌うようになる。眠る子どもの枕元では、自分の階級に生まれてよかったという言葉が繰り返し流れる。
前半の中心は、孵化センターで働くレーニナと、心理学者のバーナード・マルクスである。バーナードは上の階級なのに背が低く、周りになじめない。連帯の儀式で皆が一体感に酔っても、彼だけは取り残される。その彼がレーニナを連れて、ニューメキシコの野蛮人居留地へ休暇に出かける。
マルパイスの集落でふたりが出会うのは、文明世界から来て居留地に取り残された母リンダのもとで育った青年ジョンである。ジョンは、装丁をネズミにかじられたシェイクスピア全集を読んで育った。ロンドン行きを誘われた彼は、『テンペスト』のミランダの台詞「おお、すばらしい新世界」を口にする。
ロンドンでジョンは見世物になり、彼を連れ帰ったバーナードは一躍もてはやされる。だが同じ顔の双子の集団が持ち場ごとに働く工場で、記憶のいたずらのようにあの台詞が口をつく。死にゆく人のための病院で母を見送ったあと、ジョンは快楽薬ソーマの配給に並ぶ双子の群れに出くわし、ミランダの言葉を今度は戦いの呼びかけとして聞く。これは毒だと叫んで、薬を窓から投げ捨てる。
バーナードと友人のヘルムホルツとともに、ジョンは西ヨーロッパ駐在の世界統制官ムスタファ・モンドの前に連れて行かれる。モンドはシェイクスピアの一節をそらんじ、禁じられたその本を自分は読んでいると明かす。触感映画の代わりに『オセロー』を見せればいいと言うジョンに、鋼鉄なしに自動車は作れず、社会の不安定なしに悲劇は作れないと答える。自分もかつては物理学者だったが、科学を捨てて他人の幸福に仕える道を選んだという。ジョンは快適さではなく、神も詩も本物の危険も自由も善も、罪さえもほしいと言い返す。モンドに、つまり不幸になる権利を要求しているわけだと言われると、ジョンはそれを引き受ける。年老いて醜くなる権利、明日を恐れて暮らす権利まで並べられても、全部を要求すると答える。