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入門編 · 19〜20世紀の哲学 · 第35

神の死とニーチェ

19世紀のヨーロッパは、表面的にはまだ教会の鐘が鳴り、礼拝堂が町の中心に立っていた時代でした。けれども舞台裏では、ダーウィンの進化論、聖書の歴史的批評、産業化のなかでの伝統的共同体の解体が進み、神を中心にした世界像がじわじわと根を失いつつありました。誰もそのことを大声では口にしないなかで、3人の哲学者が異なる方向から、この空洞をのぞき込みます。

意志と苦悩:ショーペンハウアー

まず舞台に登場するのはショーペンハウアーです。彼はカントの物自体を、世界を貫く盲目的もうもくてきな「意志」として読み替えました。私たちが見ている個物の世界は表象にすぎず、その奥では満たされない欲望が永遠に駆動している。生きるとは欲し、苦しみ、つかの間の充足の後にまた別の欠乏に追われることだ、と彼は冷ややかに描きます。

ヘーゲルの楽天的な歴史哲学が大学を支配していた時代に、彼の悲観論はほとんど黙殺されました。しかし世紀の後半になると、楽観の根拠が失われていく空気のなかで、若い世代に深く読まれるようになります。芸術と禁欲だけが意志からの解放をもたらすという彼の処方箋は、ワーグナーやニーチェに直接の影響を与えました。

信仰の跳躍:キルケゴール

同じころ北のコペンハーゲンでは、キルケゴールが国教会と論争を続けていました。彼にとって信仰は、皆が日曜日に集まり、決まった文句を唱えることではありません。神の前に立つ単独者として、理性では橋渡しできない深淵しんえんを前に「跳躍」することこそが、本来の信仰のかたちでした。

客観的な真理が崩れていく時代に、彼は主体性こそ真理だと言い切ります。絶望し、不安に震え、それでも自分の生を引き受ける個人の姿。後の実存主義はここから始まると言ってよく、20世紀のハイデガーサルトルの源流の一つになります。

あなたにとって「信じる」とは、誰かから受け取るものでしょうか、それとも自分で踏み込んで引き受けるものでしょうか。

神は死んだ:ニーチェの宣言

そしてニーチェが現れます。よろこばしき知識のなかで、彼はランタンを掲げて昼間の市場に駆け込む狂人きょうじんの姿を描きました。「神を捜している」と叫ぶ狂人に人々は笑い返しますが、彼は言う。「我々が神を殺したのだ。お前たちと私が」。これは無神論の宣言というより、ヨーロッパ精神の足場が抜けたという診断書でした。

神という最高の価値が失われたあと、世界は何を基準に意味を組み立てればよいのか。ニーチェはこの空白をニヒリズムと呼びました。それは終着点ではなく、人類が通り抜けねばならない長い夜です。彼はツァラトゥストラはこう語ったのなかで、この夜を抜けた先に立つべき新しい人間像を語り始めます。

永遠回帰と超人

永遠回帰の思想は、こんな問いの形で示されます。あなたが今送っている人生が、寸分の違いもなく無限に繰り返されるとしたら、あなたはその知らせを呪うでしょうか、それとも歓喜するでしょうか。神も来世も最後の審判もない世界で、自分の生をそのまま「もう一度」と肯定できるか。

この問いに「然り」と応えうる存在を、彼は超人と呼びました。既存の道徳を破壊するためではなく、価値を新たに創造するためにこそ、人間は自分自身を超えていく。ニーチェの言葉は後に多くの誤読と政治利用に晒されますが、その核心は「神なき時代に、それでも生を肯定できるか」という、現代に直結する問いでした。次章では、19世紀の他の地域でこの動揺にどう応えたかを、英米とウィーンの3つの応答から見ていきます。