専門編 · 20世紀の哲学者たち · 第77章
ロールズ:無知のヴェールから正義へ
1928年メリーランド、6歳のジョン・ロールズはジフテリアで弟ボビーに病を移し、弟は数日で亡くなりました。翌年もう一人の弟がロールズから感染した肺炎で死去します。「私のせいで二人の弟が死んだ」という体験は、彼の倫理観を生涯貫きました。本章はこの記憶を出発点とする20世紀最大の政治哲学者を辿ります。
戦場と信仰喪失 — 道徳実験への助走
ロールズはプリンストン大学で神学を学ぶつもりでしたが、第二次大戦で太平洋戦線に配属され、フィリピン上陸作戦に参加します。原爆投下直後の広島の遺跡を訪れた経験、戦友が瀕死の傷を負ったときに自分の代わりに前線に出された記憶。戦争はキリスト教信仰への信頼を彼から奪いました。「神がこのような世界を許すなら、神学に答えはない」と彼は晩年に書いています。
復員後、ロールズはプリンストンとオックスフォードで博士号を取得し、構想の青写真を組み立てる作業に20年以上を費やします。1971年、50歳で出版された『正義論』は、それまで功利主義の支配下にあった英米政治哲学を一夜にして再生させました。冷戦のただ中、ベトナム戦争で社会が分断されたアメリカで、合意可能な正義の原理を探す試みが書かれたのです。
原初状態と無知のヴェール
ロールズの中心的な思考装置は、原初状態と呼ばれる仮想的な選択場面です。そこに集まる契約当事者たちは、自分の階級、才能、性別、人種、宗教、人生計画といった一切の偶然的属性を知らない「無知のヴェール」の背後で、社会の基本ルールを選ぶ。利己的な合理人であっても、自分が最も恵まれない立場に置かれる可能性を排除できない以上、誰にとっても受容可能な原理しか合意されえません。
これはカントの定言命法の現代版でもあります。「あなたの行為の格率が普遍的法則となりうるよう行為せよ」という18世紀の命令を、ロールズは20世紀のゲーム理論と契約論の言語で書き直した。無知のヴェールの背後では、特権の確保と最弱者の保護が同じ問題になります。倫理的判断のための強力な道具として、この思考実験は教室、ビジネススクール、政策討論にまで広まりました。
正義の二原理と反省的均衡
原初状態の当事者が選ぶとロールズが論証するのが、有名な正義の二原理です。第一原理は、思想・良心・参政権など平等な基本的自由をすべての人に保障する自由原理。第二原理は、社会的経済的不平等を、機会の公正な平等と、最も不利な立場にある者の利益を最大化する範囲でしか容認しない格差原理。両原理には逐次的優先順位があり、自由は経済的利得と引き換えに削減されてはなりません。
方法論的革新の一つが「反省的均衡」です。原理から個別判断を演繹するのでも、個別直観から原理を帰納するのでもなく、両者の不整合を見つけては相互に修正していく往復運動。私たちが「奴隷制は不正だ」と強く確信する判断と、ある原理がそれを正当化してしまう含意とのあいだに齟齬があれば、原理を修正する。この均衡は最終地点ではなく、繰り返し見直されるべき開かれた手続きでした。
ノージックからセンへ — 三十年の論争
『正義論』はただちに巨大な論争を呼びました。ハーバード同僚のノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』で、自己所有と移転の正当性に基づくリバタリアン的反論を提示し、サンデルら共同体主義者は、無知のヴェールの背後の自己が共同体的紐帯から切り離された「負荷なき自己」ではないかと批判します。アマルティア・センはケイパビリティの観点から格差原理を再構成しました。
これらの応酬を経て、1993年の『政治的リベラリズム』でロールズ自身が、包括的教説の多元性を前提に、重なり合う合意としての正義観を再定式化していきます。2002年11月24日、81歳で他界するまで、彼はメディアの前にほとんど姿を現さず、ハーバードの学生に向き合い続けました。20世紀の英米政治哲学はロールズの仕事に対する応答として書かれた、と言ってよいほどです。次章ではテーマを切り替え、認識論を皮切りに、哲学の主要分野を扱う第4セクションに進みます。
20世紀の哲学者たち · 第77章