フィロソフィーマップ

専門編 · 哲学の主要分野 · 第78

認識論:「知っている」とはどういうことか

1963年6月、雑誌「Analysis」にわずか3ページの論文が掲載されました。著者はウェイン州立大学の無名の准教授エドマンド・ゲティア、それまで一篇の論文も書いていなかった人物です。タイトルは「正当化された真なる信念は知識か」。彼はテニュア審査しんさのために半ば嫌々いやいや書いたこの小品で、プラトン以来2400年続いた知識の定義を一夜にして揺るがしました。

知識の古典的定義 — プラトンから現代分析哲学まで

「Sが p を知る」とはどういうことか。プラトンのテアイテトス以来の答えは、三つの条件のセットでした。p が真であること、S が p を信じていること、S がその信念に対して何らかの根拠(正当化)を持っていること。この「正当化された真なる信念(justified true belief, JTB)」という公式は、20世紀分析哲学にも標準教科書の定義として受け継がれていました。

古典的定義は直観的にも分かりやすい。たとえば「東京の人口は1400万人である」を私が知るには、それが事実であり、私がそう信じており、信頼できる統計を見たという根拠が必要です。三つの条件すべてが揃わないと「知っている」とは言えません。1963年まで、哲学者の大半はこの定義を当然の出発点として議論を組み立てていました。

ゲティア問題 — 修正案の連鎖

ゲティアの反例はシンプルで強力です。スミスはジョーンズが採用されると正当化された理由から信じ、さらにジョーンズのポケットに10枚のコインがあるのを見ている。よって彼は「採用される人物のポケットには10枚のコインがある」と信じる。実際に採用されたのはスミス自身で、彼自身のポケットにも偶然10枚のコインがあった。信念は真であり、正当化されているが、これを「知っている」と呼べるか。

正当化と真理が偶然一致するルートのケースで、私たちは「これは知識ではない」と感じる。1963年以降、第四条件を追加して古典的定義を救おうとする試みが続きました。「いかなる偽の前提にも依拠しない」というクラーク提案、「真であるなら信じ、偽であるなら信じない」という反事実条件を要求するノージックの追跡理論。だがいずれも別種の反例に晒され、ゲティア問題は半世紀を超えて解消されていません。

内在主義と信頼性主義 — 正当化の場所

ゲティア問題の射程は、正当化の本性そのものへ及びます。正当化を成立させる条件は、認識主体が内省的ないせいてきにアクセスできるものに限られるか、それとも外的な事実関係も含むか。経験論の伝統を継ぐ内在主義は、信念の根拠は当人が反省して提示できねばならないと主張します。デカルトの明晰判明な観念がその古典的モデルでした。

1979年、アルヴィン・ゴールドマンは「信頼性主義」を提案します。信念形成プロセスが事実として信頼できるなら、当人がその信頼性を自覚していなくても正当化される、と。視覚は信頼できるプロセスだから、私たちは「目の前にコップがある」と知っている。動物や幼児に内省的アクセスがなくても知識を認められるこの立場は、認識論を生物学的・進化的視点に開く扉となりました。

自然化認識論と徳認識論 — 現在の地形

1969年、論理学クワインは「自然化された認識論」を提案します。認識論を心理学・認知科学の一部門とすべきだ、というラディカルな転回でした。「人がいかに知るべきか」を演繹的に基礎づけるよりも、「人がいかに知るか」を経験科学として記述する方が実りある。これは合理論的な伝統への根本的挑戦であり、心の科学と認識論の接続を準備しました。

2000年代以降、リンダ・ザグゼブスキらが推進する徳認識論は、知識を認識主体の知的徳(注意深さ・誠実せいじつさ・知的謙遜けんそん)の発露はつろとして再定式化しています。AI時代の認識論は「機械が知ることができるか」「集合的な知識とは何か」といった新しい問いを抱え込み始めました。次章では、知るとは何かと並ぶ古典的問い、「何が存在するか」を扱う形而上学に進みます。