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「廓然無聖」

達磨古代

仏教の最高の真理を問う梁の武帝に、達磨が答えたと禅宗の伝承が伝える言葉で、禅の公案の一つ。

哲学

この言葉について

聖なる真理とは何かと問われた達磨が答えたと伝わる、禅の公案の一つとして知られる言葉。

【背景】

梁の武帝と達磨の会見を語る禅宗の伝承の中の答えで、この会見の話は、758年ころ神会の著作の付録に初めて記録された。功徳をめぐる問答のあと、武帝が仏教の最高の真理を示すよう求めたのに対し、達磨はこう答えたとされる。

【解釈】

「廓然」は、心が大空のように晴れてわだかまりのないさまを表し、悟りの形容にも使われる語である。国語辞典は、絶対に不変である真如の世界には、凡人と聖人のはっきりした区別など無い、という意味の公案と説明する。聖と俗を二つに分けて立てる見方そのものを、この答えは退けていると読める。

【現代への示唆】

何かを聖なるものとして掲げるとき、同時に何を俗なるものとして退けているのか。物事を二つに分けて値打ちをつける習慣を、あらためて見直す手がかりになる。

さらに深く

【出典】

この句は達磨本人の著作ではなく、禅宗の伝承の中の答えである。『景徳伝灯録』巻第三では、功徳をめぐる問答に続けて、武帝が「如何是聖諦第一義」(聖なる真理の最高の意義とは何か)と問い、達磨が廓然無聖と答える。武帝がさらに、朕に向かい合っているのは誰かと問うと、達磨は不識(知らない)と答え、武帝は悟らなかった。雪竇重顕が集めた百の公案に頌(詩)を付けた集と、それをもとに1125年に宋で編まれた『碧巌録』の第一則では、本則(取り上げる公案の本文)に功徳の問答は無く、いきなり聖諦第一義の問いから始まる。そのあと達磨は江を渡って魏へ去り、武帝が志公に尋ねると、志公はあの人は観音大士で、仏の心の印を伝えに来たのだと答える。

【よくある誤解】

「無聖」を、聖なるものなど存在しないという宗教の否定と取ると、この問答が置かれた文脈を見落とす。『碧巌録』を今の形にまとめた圜悟克勤は、その評唱で、武帝が婁約法師らと真諦と俗諦を論じていたことを述べ、教えでは真と俗が二つでないことを聖諦第一義とし、武帝はこの教理の極みを持ち出して問うたのだと説明する。達磨はそれを一刀のもとに断ち切った、というのが評唱の読みである。目をむいて廓然無聖と唱えてみせる者は的外れだとも戒めている。話の細部の史実性にも注意が要る。同じ評唱で圜悟は、人の伝えでは志公は天監十三年に亡くなり、達磨は普通元年にようやく来たのだから七年の隔たりがある、それなのになぜ二人が同時に会ったと言うのか、これはきっと誤伝だと書き、この点は論じず大綱をつかめばよいとしている。

【この言葉のその後】

雪竇は第一則に付けた頌で、聖諦は廓然としてどうして的を弁じられようか、朕に対する者は誰かと問えば、また知らないと言う、と詠み、国中の人が追っても二度と戻らず、千古万古むなしく思い合うばかりだ、と続ける。そのうえで雪竇は左右を見回し、ここに祖師はいるかと問い、自らいると答えて、呼んで来て老僧の足を洗わせよ、と結ぶ。この句は日本の近代文学にも入り、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年から1906年)には、廓然無聖などと乙な理屈を考え込んでいる、という一節があり、国語辞典はこれを日本語での初出の例として挙げている。

この言葉を残した人物

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