「万物は数である」
ピタゴラス古代
アリストテレスが『形而上学』で伝えたピタゴラス派の学説を、ピタゴラスの言葉として要約した句。
この言葉について
世界の成り立ちを数とその比によって捉えようとした、古代ギリシアのピタゴラス派の考えを短くまとめた言葉。
【背景】
ピタゴラスは何も書き残しておらず、同時代人による詳しい記録も無い。この形の文も、本人の言葉としては伝わっていない。数をめぐる学説は、アリストテレスが前5世紀の「いわゆるピタゴラス派」に帰したもので、彼はこれをピタゴラス本人の説としては扱っていない。
【解釈】
アリストテレスによれば、ピタゴラス派は事物そのものが数だと考えた。数を感覚的な事物から切り離された別のものとみたのはプラトンの方で、アリストテレスは両者をはっきり区別している。プラトンはピタゴラス派に大きく負っているとしばしば考えられるが、数の位置づけは同じではない。
【現代への示唆】
現代の物理学は自然法則を数式で書き表し、宇宙を数学的な構造として理解しようとする。なぜ数学が現実をこれほどうまく記述できるのかという問いは、今も哲学と科学が交わるところにある。
さらに深く
【出典】
元になっているのは、アリストテレスが『形而上学』第1巻で「いわゆるピタゴラス派」について述べた報告である。彼によれば、この人々は数学に打ち込み、それを学ぶうちに、数学の原理が万物の原理だと考えるようになった。音階の性質や比が数に基づくことも見て取った。そして「τὰ τῶν ἀριθμῶν στοιχεῖα τῶν ὄντων στοιχεῖα πάντων ὑπέλαβον εἶναι」(数の要素が、あらゆる存在するものの要素だと考えた)うえで、天全体を調和であり数であるとした。アリストテレスはこの人々を前5世紀の中ごろから後半に置き、この説明にピタゴラス本人を入れていない。
【よくある誤解】
ピタゴラスが鍛冶屋の槌の音などから和音と整数比の関係を発見し、そこから万物は数だと悟ったという話は、事実としては扱えない。ある哲学事典は、彼に帰される発見の方法はどれも実際にはうまくいかないので、発見の話は明らかに誤りだとする。ただし、彼がこの関係を知っていた可能性までは否定していない。また、前5世紀のピタゴラス派の中心人物フィロラオス(前470年ころから前385年ころ)は、知られるものはすべて数を持つと書いた。同じ事典によれば、事物は数である、あるいは数からできているというアリストテレスの説明は、フィロラオスの断片では裏づけられない。
【この言葉のその後】
アリストテレスは、ピタゴラス派が事物は数を「模倣」して存在すると言ったのを、プラトンは「分有」と言い換えただけで、変えたのは言葉だけだと書いている。ただしプラトンが著作の中でピタゴラスの名を出すのは『国家』の一か所だけで、そこでピタゴラスは一つの生き方を創始した人として扱われている。アリストテレスにいたっては、現存する著作でピタゴラス本人に一度も触れていない可能性がある、と同じ事典は書く。
この言葉を残した人物
「哲学」の名言
「存在は本質に先立つ」
サルトルが1945年の講演「実存主義はヒューマニズムである」で掲げた、実存主義の中心命題。
「色即是空」
『般若心経』で観自在菩薩が舎利子に説く、形あるものはそのまま空であるという一節。
「無知の知」
プラトン『ソクラテスの弁明』で、ソクラテスが知らないことを知っているとは思わないと語った箇所の要約。
「人間は万物の尺度である」
ソフィストのプロタゴラスの著作に由来し、プラトン『テアイテトス』の引用などで伝わる、人間を万物の尺度とする断片。
「無功徳」
梁の武帝に功徳を問われた達磨が答えたと禅宗の伝承が伝える言葉で、『景徳伝灯録』などに見える。
「本来無一物」
『六祖壇経』の通行本が慧能の偈の一句として伝える、もとより一物も無いと詠む禅の言葉。