「徳とは二つの悪徳の中間にある」
アリストテレス古代
アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で、徳を過剰と不足という二つの悪徳の中間と定めた言葉。
この言葉について
さらに深く
【出典】
アリストテレス本人の文である。『ニコマコス倫理学』第2巻第6章で、彼は徳を、選択にかかわる性向であり、われわれに相対的な中間にあるもので、その中間は理によって、思慮ある人が定めるような仕方で定まると定義する。そのすぐ後に「μεσότης δὲ δύο κακιῶν(メソテース・デ・デュオ・カキオーン、二つの悪徳の中間である)」と続け、一方は過剰による悪徳、他方は不足による悪徳だと説明する。恐れや怒りや快苦は、多すぎても少なすぎてもよくない。しかるべき時に、しかるべき事柄について、しかるべき人に対して、しかるべき動機で、しかるべき仕方で感じることこそ、中間であり最善だという。
【よくある誤解】
中庸を「ほどほど」や平均値と考えるのは誤りである。アリストテレスは、ある人にとって10の量の食事が多すぎ2が少なすぎるとしても、指導者が6を命じるとは限らないと書く。それは前6世紀のレスリング選手ミロンには少なすぎ、運動を始めたばかりの者には多すぎるかもしれない。中間は事物の真ん中ではなく、われわれに相対的な中間である。さらに彼は、徳は本質の定義からすれば中間だが、最善という観点からは頂点(アクロテース)だと言う。また、悪意、恥知らず、嫉妬、姦通、窃盗、殺人のように名前自体が悪を含むものには中間がなく、相手や時や仕方を選べば正しくなるということは決してないと明言している。
【この言葉のその後】
この中間の説は、中世のキリスト教神学に取り込まれた。トマス・アクィナスは『神学大全』第2部の1第64問で、道徳的徳は中間を守るかを問い、アリストテレスを「哲学者」と呼んで引きながら、徳は本質においては中間であり、最善という点では極であるという区別を採用した。そこでは、性的なことを一切断つ処女性や、すべてを貧者に与えることは極端ではないかという反論も検討され、正しい目的のために正しい仕方で行うなら徳にかなうが、虚栄のために行えば過剰になると答えている。中間を量の真ん中とせず、情念を理性の規則に一致させることとみる読み方が、ここにはっきり表れている。
この言葉を残した人物
アリストテレスのほかの名言
「道徳」の名言
「最大多数の最大幸福」
ベンサムが『統治論断片』の序文で、正と不正の尺度として掲げた功利主義の標語。
「人生に意味を問うのではなく、人生から問われていることに答えよ」
フランクルが『夜と霧』で、生きる意味への問いを転換すべきだと説いた考えを要約した言葉。
「人間を手段としてのみ扱うな、常に同時に目的として扱え」
カントが『人倫の形而上学の基礎づけ』で示した、人間性を単なる手段として扱うことを禁じる定式。
「不正を行うよりも、不正を受ける方がよい」
プラトンが対話篇『ゴルギアス』に記した、ソクラテスが不正を行うことこそ最大の悪だとして語る言葉。
「正義の原理は、無知のヴェールの背後で選ばれる」
ロールズが『正義論』で、正義の原理を選ぶ人々から自分の立場の知識を奪う仕掛けを述べた一文。
「悪の凡庸さ」
アーレントが『エルサレムのアイヒマン』の副題に掲げ、アイヒマンの人柄と動機を言い表した言葉。