「幸福とは、完全な徳に即した魂の活動である」
アリストテレス古代
アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第1巻で、幸福を徳の発揮として定義した言葉。
この言葉について
さらに深く
【出典】
この言葉は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第1巻の、ベッカー版の頁付けで1102aに当たる箇所の文を、原文に沿って訳したものである。原文は「ἡ εὐδαιμονία ψυχῆς ἐνέργειά τις κατ᾽ ἀρετὴν τελείαν(ヘー・エウダイモニアー・プシューケース・エネルゲイア・ティス・カタレテーン・テレイアーン)」で、直訳すれば、幸福とは完全な徳に即した魂のある種の活動である。少し前の1098aでは、人間の善とは徳(アレテー、卓越性)に即した魂の活動であり、徳が複数あるなら最善で最も完全な徳に即した活動だと述べ、さらに完全な生涯においてと付け加えていた。一羽のツバメや一日で春にならないように、一日や短い時間で人は幸福にならないからだ。「完全な徳に即した」を省いた「幸福とは魂の活動である」という短い形でも知られる。
【よくある誤解】
「幸福とは魂の活動である」と縮めると、忙しく動き回ることや気分の高揚が幸福だと読めてしまう。だがアリストテレスのいう活動(エネルゲイア)は、徳という卓越性を実際に発揮していることで、徳に即していること、生涯全体を通じていることという二つの条件が付いている。また彼は、幸福を内面だけで完結するものとも見ていない。幸福は外的な善も必要とするように見えると認め、友人や富や政治的な力が道具のように役立ち、生まれの良さや子宝、容姿を欠けば至福が損なわれると言う。英語圏の倫理学では、eudaimonia を「幸福」と訳すと主観的な気分のように響く難点が指摘され、「開花」「繁栄」とも訳される。
【この言葉のその後】
アリストテレス自身、第10巻で議論をさらに進め、完全な幸福は観想(テオーリアー、真理をながめ知ること)の活動だとした。神の活動として残るのは観想しかなく、人間の活動のうちこれに最も近いものが最も幸福だという理屈である。徳と幸福を結ぶこの倫理学は、少なくとも啓蒙期まで西洋の道徳哲学の主流であり続け、19世紀に一時影を潜めたが、1958年のアンスコムの論文「現代道徳哲学」を先触れとして1950年代末に英語圏で復活し、徳倫理学と呼ばれる潮流になった。そこでは、アレテー、フロネーシス(実践知)、エウダイモニアという古代ギリシアの三つの概念が今も中心に置かれている。
この言葉を残した人物
アリストテレスのほかの名言
「幸福」の名言
「幸福とは、持つことではなく、在ることである」
フロムが『生きるということ』で示した「持つ様式」と「ある様式」の対比を要約した言葉として知られる。
「意味への意志」
フランクルが、快楽への意志や力への意志に対して、人を根本で動かすものとして掲げた考え。
「大麦のパンと水は、飢えた者が口にするとき最高の快を与える」
エピクロスが『メノイケウス宛の手紙』で、質素な食べ物も飢えを満たすとき最高の快をもたらすと述べた一文。
「夢に蝶となりて、蝶の夢か我の夢か知らず」
荘子の名で伝わる『荘子』「斉物論」篇の、胡蝶の夢の問いを縮めて訳した言葉。
「足るを知る者は富む」
老子が『老子』第33章で、満ち足りることを知る者こそ本当に豊かだと説いた言葉。
「物事には、われわれの力の及ぶものと、及ばないものがある」
エピクテトスの教えを伝える『提要』の冒頭で、力の及ぶものと及ばないものを分けた一文。