
孫文
そんぶん(Sun Yat-sen)
1866年 — 1925年
中華民国の建国の父、三民主義の提唱者
この人物について
アジア近代化の先駆者として中国革命を指導し、「国父」と称される思想家・政治家。辛亥革命で清朝を倒し、共和制への道を切り開いた。
【代表的な著書・業績】
『三民主義』は民族・民権・民生の三原理による国家建設論を体系的に示した主著であり、『建国方略』『建国大綱』とあわせて近代中国の政治思想の基盤を成した。1911年の辛亥革命で清朝を打倒し中華民国を樹立、翌年臨時大総統に就任した。中国国民党の前身を組織し、生涯を革命運動に捧げて1925年に北京で没した。
【思想・考え方】
外国支配からの解放を求める民族主義、民主政治の実現を求める民権主義、国民生活の向上を求める民生主義の「三民主義」を柱に、西洋近代の諸思想と中国の伝統を融合させアジア独自の近代化路線を模索した。民権主義では人民の直接民主制を重視し、民生主義では土地改革と私的独占資本の制限によって格差を是正する社会改良主義的な構想を打ち出した。
【特徴的な点】
広東出身でハワイ・香港・日本・ヨーロッパ・アメリカを行き来した国際的革命家であり、日本滞在中には宮崎滔天ら多くの支援者を得た。台湾では「国父」、中国大陸では「革命の先行者」として、両岸の双方で敬われる稀有な存在である。
【現代との接点】
アジアの民主化運動や国家建設の議論において今なお参照される思想的遺産である。
さらに深く
【生涯と行動】
孫文(1866〜1925)は、広東省香山県翠亨村の農民の家に生まれた。13歳で兄を頼ってハワイのホノルルに渡り、英国国教会系の学校でキリスト教と西洋科学に触れ、近代的知識を身につけた。香港の西医書院で医学を学んで開業医となったが、清朝の腐敗と列強の半植民地化を前に医術では国を救えないと悟り、1894年にハワイで興中会を組織して革命に転じた。ロンドン蒙難事件で清朝公使館に拉致されながら救出された経験は国際的名声をもたらし、以後日本、ヨーロッパ、アメリカを転々として資金と同志を集めた。1911年の武昌蜂起を経て辛亥革命が成り、翌年臨時大総統に就いたが、袁世凱との妥協で退き、以後は中華革命党、中国国民党を組織して民主政治へ段階的に移行する革命を構想した。1925年、北京で癌により没した(長く肝癌とされてきたが、解剖報告では胆嚢の腺癌が肝臓に転移したものと結論された)。
【政治思想の核心】
三民主義の独創は、民族・民権・民生の三課題を一つの近代化プログラムとして統合した点にある。三民主義は、ヘンリー・ジョージの土地論やマルクス主義、中国のユートピア思想など幅広い思想の影響を受けた折衷的な構想であった。政権・治権の分離論と立法・行政・司法・考試・監察の五権憲法は、伝統的な科挙と御史制度を近代憲法に接続する独自の制度設計である。軍政・訓政・憲政という三段階論は、民衆の政治的成熟を前提に段階的に民主主義を実現する過渡期理論として、後発国の近代化論に先駆けた。
【影響と評価】
中華民国では「国父」、中華人民共和国では「革命の先行者」と称される両岸共通の象徴であり、東アジア近代思想史の結節点である。国共合作の失敗後、訓政の理念が権威主義に転じる危険性が現実化した歴史は、段階的民主化論の脆さを示す事例でもある。ベトナムの民族主義者の結社が三民主義に着想を得、インドネシアのスカルノも1945年の演説で三民主義によって民族意識に目覚めたと語るなど、アジアの民族解放運動に影響を与えた。
【さらに学ぶために】
深町英夫《ふかまちひでお》『孫文:近代化の岐路』が近年の研究を踏まえた標準的評伝である。翠亨村の故居と南京の中山陵の写真資料に触れると、その移動する革命家像が立体化する。





