「物事には、われわれの力の及ぶものと、及ばないものがある」
エピクテトス古代
エピクテトスの教えを伝える『提要』の冒頭で、力の及ぶものと及ばないものを分けた一文。
この言葉について
力の及ぶことと及ばないことを見分け、及ばないことに動揺しないことが心の平安の鍵だというストアの知恵。
【背景】
エピクテトスの『提要』(エンケイリディオン)冒頭の一文。ただし『提要』は本人が書いた本ではなく、その講義を筆録したアッリアノスの『語録』を短く要約したものとして伝わる。奴隷として生きた時期をもつエピクテトスは、外の状況に左右されない内面の自由を追求した。
【解釈】
力の及ばないことに心を乱すのは、不幸のもとになる。及ぶことには力を注ぎ、及ばないことは受け入れる、という受容と集中の知恵である。
【現代への示唆】
不安やストレスの多くは、自分には変えられないことへの執着から生まれる。その境目を見直すだけでも、心は軽くなりうる。
さらに深く
【出典】
この言葉は、ストア派の哲学者エピクテトス(50年代に小アジアのギリシア都市ヒエラポリスで生まれ、135年ごろ没)の『提要』第1章の冒頭、「Τῶν ὄντων τὰ μέν ἐστιν ἐφ᾽ ἡμῖν, τὰ δὲ οὐκ ἐφ᾽ ἡμῖν(トーン・オントーン・タ・メン・エスティン・エフ・ヘーミーン、タ・デ・ウーク・エフ・ヘーミーン)」を、原文に沿って訳したものである。力の及ぶものとして挙げられるのは判断、意欲、欲求、忌避、要するに自分の働きであるもので、及ばないものは身体、財産、評判、官職、要するに自分の働きでないものだと続く。命令の形に言い換えた「我々にできることと、できないことを区別せよ」という形でも知られる。『語録』の序文によれば、講義を書き留めたのはニコメディアの文筆家で歴史家のアッリアノスである。
【よくある誤解】
この言葉を、変えられることに集中せよ、という処世訓として読むと、線引きの厳しさが見えにくい。自分の身体さえ力の及ばないものに置かれ、力の及ぶものは本性上自由で妨げられず、及ばないものは弱く、隷属的で、他人のものだとされる。第5章の、人を乱すのは物事ではなく物事についての考えである、という言葉もこの区別から出てくる。ただし、何もかも受け流せという教えでもない。彼は、血縁や立場で結ばれた人々の利益を図ることを全く適切だと考え、人との関係を正しいふるまいによって保つことは自分の善に属するとした。短い『提要』だけを読むと、彼の哲学の動機について誤った印象を受ける箇所があるとも指摘されている。
【この言葉のその後】
エピクテトスの影響は、アッリアノスの筆録を通じて広がった。皇帝マルクス・アウレリウスは直接の弟子ではなかったが、その書を読んで深く感銘を受け、この解放奴隷の哲学者の信奉者を自任したとされる。『提要』は1497年にポリツィアーノによってラテン語に訳され、その後の二世紀にわたってヨーロッパで非常に広く読まれた。デカルトも、個人的な倫理の一部として、それとわかるエピクテトス的な価値観を取り入れている。その教えは、こうして皇帝から近代の哲学者にまで届いたのである。
この言葉を残した人物
「幸福」の名言
「ただちに生きよ」
セネカが『人生の短さについて』で、明日を当てにせず今日のうちに生きよと促した言葉。
「幸福とは、完全な徳に即した魂の活動である」
アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第1巻で、幸福を徳の発揮として定義した言葉。
「幸福とは、持つことではなく、在ることである」
フロムが『生きるということ』で示した「持つ様式」と「ある様式」の対比を要約した言葉として知られる。
「意味への意志」
フランクルが、快楽への意志や力への意志に対して、人を根本で動かすものとして掲げた考え。
「大麦のパンと水は、飢えた者が口にするとき最高の快を与える」
エピクロスが『メノイケウス宛の手紙』で、質素な食べ物も飢えを満たすとき最高の快をもたらすと述べた一文。
「夢に蝶となりて、蝶の夢か我の夢か知らず」
荘子の名で伝わる『荘子』「斉物論」篇の、胡蝶の夢の問いを縮めて訳した言葉。