言葉は世界を正しく表せるのか
ことばは せかいを ただしく あらわせるのか
言語の限界と世界との関係を問う認識論的探究
この問いについて
美しい夕焼けの感動を誰かに伝えようとするとき、言葉がどうしても足りないと感じる。言葉は世界を写し取る道具なのか、それとも世界を作り替えてしまうものなのか。
【この問いの背景】
言語と現実の関係は20世紀哲学の中心主題だった。ウィトゲンシュタインは前期と後期で言語観を大きく変え、言語哲学の方向性を二度にわたって刷新した。サピア=ウォーフの仮説は、使う言語によって世界の見え方が変わる可能性を示した。
【哲学者たちの答え】
■ 前期ウィトゲンシュタインの「写像理論」
『論理哲学論考』で言語は世界の構造を映し出す「像」だと考えた。命題は事実の論理的な写像であり、語りえないことについては沈黙せよと主張した。
■ 後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」
後期は自らの写像理論を否定し、言葉の意味は使われる文脈や実践(言語ゲーム)によって決まると論じた。言語は世界を写すのではなく社会的活動の一部だ。
■ デリダの「差延」
デリダは、言葉の意味は他の言葉との差異の連鎖によって生まれ、最終的な意味に到達することは永遠にないと主張した。意味は常にずれ続けるとした。
【あなたはどう考えるか】
同じ出来事を日本語と英語で語ると伝わるニュアンスが異なる。言語が異なれば世界の見え方も変わるのか。言葉にできない体験は、本当に「存在する」と言えるのか。
さらに深く
【問いの深層】
言葉と世界の関係には、少なくとも三つの立場がある。第一に、言語は世界を正確に反映するという素朴実在論的な見方。第二に、言語は世界を構成するという構成主義的な見方。第三に、言語と世界は互いに影響し合うという相互作用的な見方だ。科学の言語は世界を正確に記述しているように見えるが、科学の歴史を振り返ると、過去の「正確な記述」が後に修正されてきたことがわかる。言語の限界を知ることは、認識の限界を知ることでもある。詩や文学が言葉にできないものを言葉で示そうとする営みは、言語の射程を広げ続ける実践である。
【歴史的展開】
古代ギリシャではプラトンが『クラテュロス』で言葉と事物の関係を論じた。中世には『普遍論争』として、一般的な概念(「人間」「善」など)が実在するかどうかが激しく議論された。20世紀初頭、フレーゲやラッセルが言語の論理的分析を始め、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が言語と世界の対応を論じた。後に彼自身がこれを覆し、オースティンやサールは言語を「行為」として捉える語用論を発展させた。現代では認知言語学が言語と思考の関係を実証的に研究し、デリダやフーコーは言語と権力の絡み合いを暴いた。翻訳の不可能性や、ネイティブスピーカーの直観と論理的記述のずれは、言語が世界を写す鏡というより世界を切り出す道具に近いことを示している。
【さらに学ぶために】
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』は言語と意味の問題を根本から考え直した20世紀最重要の哲学書の一つである。丸山圭三郎《まるやまけいざぶろう》『言葉と無意識』は言語の本質を日本語で深く探究した名著だ。野矢茂樹《のやしげき》『語りえぬものを語る』は、言語の限界と可能性を平明な筆致で考え直す現代日本語の好著である。ソシュール『一般言語学講義』は、言語が世界を分節する記号体系であることを示した近代言語学の出発点だ。
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