ある朝、カワウソ探偵の事務所のドアを、樽が突き破った。
「邪魔だ。退け」
正確には、突き破ったのは樽ではなく、樽を抱えたディオゲネスだった。デスクで朝のお茶を飲んでいたカワウソが、慌ててバッジを正す。
ディオゲネス
「ディオゲネスさん、これはどういう」
「事件だ、カワウソ。俺の樽が動かない」
「樽が、動かない?」
「正確には、俺の方が動けない。樽の中で「今日は寝るか、それとも考えるか」を選ぼうとしたら、体が硬直した。これは犯罪だ。俺の自由が奪われている」
ディオゲネスは樽を床にどんと置き、ランタンを掲げた。その不機嫌な目には、いつもの皮肉ではなく、焦りがあった。
「街中で同じ症状が出ている。哲学者たちが選択肢を前にすると固まる。今朝、ハイデガーが森で硬直しているのを見た。広場ではサルトルが自由の刑だと叫んでいた」
「サルトル先生が」
「あの男だな、犯人は。だが証拠を突きつけてやる必要がある。カワウソ、引き受けろ」
「依頼料は」
「樽は俺の財産だ。払えん。だが解決すれば、お前を犬の哲学者として認めてやる」
「犬の哲学者……って何ですか」
「俺の流派の名だ。家を持たず、財を持たず、礼を捨てて、自然のままに生きる。犬のように生きるから、犬の哲学者だ」
「なるほど。ですが、報酬としてはやはり微妙ですね」
「俺は皇帝アレクサンドロス大王にすら「退け」と命じた男だ。その俺の認定なら、勲章百枚より重い」
カワウソは小さくため息をつき、メモ帳を取り出した。動機の有無は問わず、選択を扱う実存系の哲学者を書き出していく。
容疑者
「五人とも「選択」を扱う者たちだ。誰かが、自分の哲学を街に強要している」
カワウソはバッジを正し、事務所を出た。広場に出ると、確かにそこかしこで人々が固まっていた。カフェの前で、注文を聞かれた哲学者がメニューを前に石化している。本屋では、客が二冊の本を手にしたまま、どちらを買うか選べずに動けなくなっている。
街は、にぎやかさを失っていた。
サルトルのカフェ
サルトルは、街の中央広場のカフェにいた。煙草を吸いながら、ノートに何か書きつけている。だが、よく見ると、彼の手は小刻みに震えていた。
サルトル
「サルトル先生、お時間よろしいですか」
「もちろんだ。座りたまえ」
カワウソは向かいに座った。サルトルはカフェオレを前に置いていたが、それを飲もうとしては、ふと手を止め、また書く、を繰り返している。
「先生、最近、街の哲学者たちが選択できなくなる症状が出ています」
「知っている。素晴らしいことだ」
「素晴らしい、ですか」
「人間は自由の刑に処せられている。これは私の哲学だ。皆がようやく、自由の重さを理解し始めている」
サルトルは煙を吐いた。机の上には開かれたままのノートがあり、そこには同じ一行が何度も繰り返し書かれていた。
人間は自由の刑に処せられている。
ページを埋め尽くすほどに。
「先生、ずいぶん書かれましたね」
「言葉は世界を変える力を持つ。コミットメントこそが知識人の務めだ」
「ご自身で、街にこの症状を起こされましたか」
「それは、答えがある問いではない」
サルトルは皮肉な笑みを浮かべた。だが、煙草を消そうとしたその手は、わずかに震えていた。彼自身、それに気づいたのか、慌てて手を膝に下ろす。
「アリバイは」
「昨夜から、ここで書き続けていた。証人はカフェの店員だが、彼女は今、メニューを選べない状態にある。証言は取れまい」
「動機がある人物は」
「私に名指しさせるつもりかね。それは公平でない」
サルトルはノートを閉じ、机の上に伏せた。何かを隠すように。
「ご協力、ありがとうございました」
立ち上がるカワウソに、サルトルが声をかける。
「カワウソ君、君も自由の刑に処せられているんだぞ。選ばないことも選択だということを忘れるな」
カワウソはメモ帳に書き留めた。
サルトル:「自由の刑」をノートに繰り返し書いている。アリバイなし。皮肉な態度。
キルケゴールの教会
キルケゴールは、街の小さな教会の前に立っていた。深刻な顔で、空を見上げている。
キルケゴール
「キルケゴール先生」
「ああ、カワウソ君。よく来た」
「街で選択できなくなる症状が出ています」
「知っている。実に実存的な事態だ」
キルケゴールは少し笑った。控えめだが、痛烈な笑い。
「先生は、それを起こされましたか」
「私は人を麻痺させる哲学者ではない。私は飛躍を促す哲学者だ」
「飛躍、ですか」
「人生には三つの段階がある。美的実存、倫理的実存、宗教的実存。各段階を超えるには、論理ではなく信仰の飛躍がいる」
キルケゴールは石段に腰を下ろした。
「街の連中は今、選択を恐れている。それは美的実存の段階で止まっているからだ。彼らに必要なのは、選択を避けることではなく、飛躍することだ」
「では、犯人ではない、と」
「私ではない。私の哲学は選びなさい、さもなくば腐るだ。選べなくする犯人とは、真逆の立場だ」
「動機がある人物は」
「サルトルだろうな」
キルケゴールは即答した。
「彼は私の弟子のような顔をするが、実際は逆だ。私は信仰への飛躍を説く。彼は自由の刑を説く。同じ実存でも、私のは希望、彼のは呪いだ」
「サルトル先生は犯人だと」
「断定はせぬ。だが、彼の演説は最近、強迫的だ。皆を彼の哲学に閉じ込めようとしている」
カワウソはメモした。
キルケゴール:サルトルを名指し。動機は「自由の刑」を皆に強要しているから。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。真理は、客観ではなく、主観の内にある。証拠だけで判断するな。直観も信じよ」
キルケゴールは教会の中へ入っていった。背筋を伸ばし、一歩一歩、自分で選んだ歩幅で。
ハイデガーの森
ハイデガーは、Black Forest と書かれた看板の下、森の中で立ち止まっていた。完全に硬直している。
ハイデガー
「ハイデガー先生、大丈夫ですか」
「……」
「先生、聞こえますか」
「……世界、内、存在……」
「世界内存在、ですね」
ハイデガーはゆっくりと顔を動かした。額には汗がにじんでいる。
「カワウソ君か。私は、今、選択を、強いられている」
「何の選択ですか」
「散歩を、続けるか、引き返すか。投企を、しようとしたのだが、できぬ」
ハイデガーは深く息を吐いた。
「自分の存在が、世界の中に、投げ込まれている、ということを、改めて、感じる」
「先生は、犯人ではないですよね」
「私は、決断の哲学者だ。決断を、させなくする者では、ない」
「動機は」
「ない。私は、人を麻痺させたいとは、思わない」
「同業者で怪しい人は」
「サルトル」
ハイデガーは即答した。少しずつ動けるようになってきた。
「彼は、私の哲学を、フランス風に薄めた男だ。私の投企を、彼は「自由の刑」と呼び替えた。だが、薄めたものは、毒になることもある」
「投企、と自由の刑は、違うのですか」
「投企は、世界内存在として、自分を未来に投げ出すことだ。私の哲学では、人は存在を問う者として特別な位置にいる。死への先駆を意識して、本来的に生きる。能動だ。希望だ」
ハイデガーは森の木にもたれた。
「だが、サルトルは、私から人間だけを取り出した。実存は本質に先立つ、と言って、人間中心の哲学にしてしまった。私の問いは、もっと深い。存在そのものを問うていた。彼はそれを忘れた」
「忘れた、ですか」
「彼の自由は、存在から切り離されたむき出しの自由だ。だから、それは「刑」になる。逃げ場がない。受動だ。呪縛だ」
「先生は、それを許せない、と」
「許す許さないではない。精度の問題だ。彼の言葉は、私のものから力を抜いたもの。だから街にも、力なく伝染する」
カワウソはメモした。
ハイデガー:サルトルを名指し。彼の「自由の刑」は「投企」を「人間中心に薄めた」もの、と評する。
「ありがとうございました」
「カワウソ君、最後に一つ。現存在は時間性である。事件を解くには、過去・現在・未来の三層を見よ」
ハイデガーは森の奥へ消えた。
シェイクスピアの楽屋
シェイクスピアは、街の劇場の楽屋にいた。羽ペンを持ち、台本を眺めている。
シェイクスピア
「シェイクスピア先生」
「おお、カワウソ君。ちょうどよかった。To be, or not to beの続きを書いていた」
シェイクスピアは台本を見せた。そこにはハムレットの独白が書かれている。
「先生、実は事件で来ました」
「街の選択硬直症だな。あれはハムレット症と呼んで良かろう」
「ハムレット症」
「ハムレットは、父の仇を討つか討たないか、で延々と悩み続ける。選択しないことを選択する男だ。私は彼を、人間の代表として書いた」
シェイクスピアは羽ペンを置いた。
「だから、街の連中が選べなくなっているのを見ても、私は驚かない。だが、自然発生でないことは分かる」
「と、言いますと」
「選択を強要する者がいる。だが、それは表向きの犯人だ。私が劇作家として観察してきた経験で言えば、真の演出家は舞台に出ない」
「演出家は舞台に出ない」
「そうだ。サルトルは熱演している。皆の目が彼に向く。だが、裏で台本を書き換えている男は別にいる」
カワウソはペンを持ち直した。
「先生、誰だと思いますか」
「私は劇作家だ。観察者だ。だが、観察者の目で見れば、もう一人の観察者が見える。彼は何も書かず、ただ眺めている。冷静すぎる男が、街にもう一人いる」
「冷静すぎる男」
「シーシュポスを語る男だ」
カワウソは息を呑んだ。
「ありがとうございました」
「探偵君、世界は舞台、人は皆役者だ。だが、舞台の外には、必ず演出家がいる」
カワウソは深く頭を下げた。
メモ帳には、こう書かれた。
シェイクスピア:サルトルは表向きの犯人、真犯人は「冷静な観察者」と示唆。シーシュポスを語る男 = カミュ。
カミュの海辺
カミュは、街外れの海辺にいた。岩に腰を下ろし、煙草を吸いながら、海を眺めている。
カミュ
「カミュ先生」
「やあ、探偵君。座りたまえ」
カワウソは隣の岩に座った。波の音が心地良かった。
「街で選択できなくなる症状が出ています」
「知っている」
「先生は、選択の意味を疑う哲学者ですよね」
「人生は不条理だ。選んでも選ばなくても、結局は同じだ。シーシュポスは岩を山頂に押し上げ続ける。意味はない。だが、それでも生きるしかない」
カミュは煙を吐いた。落ち着いた所作。
「だが、私は人を麻痺させたいとは思わない。むしろ、人に反抗を促す」
「動機がある人物は」
「最も自分の哲学を信じている男が犯人だ。サルトルだろうな」
カミュは即答した。
カワウソは少し沈黙した。海辺の砂を眺める。カミュの靴の脇には、街の埃が薄く積もっていた。海辺だけにいたなら、付くはずのない埃。
「先生、最近、街を歩かれましたか」
「私はここにいる。海を見ている」
「では、その靴の埃は」
「……古いものだろう」
カワウソはカミュの開いていたノートを横目に見た。そこには付箋が大量に貼られたサルトルの『嘔吐』が挟まっている。複数のページに線が引かれ、メモが書き込まれている。
「先生、サルトル先生の哲学を、ずいぶん研究されているんですね」
「不条理の対極にあるからな。批判のために読む」
「ですが、これは批判というより、抽出のように見えます」
カミュは目を細めた。海風が二人の間を吹き抜ける。
「君は、何を疑っているのかね」
「先ほどシェイクスピア先生がおっしゃいました。演出家は舞台に出ない、と。サルトル先生は熱演している。だが、その台本を書き換えている人物は別にいる、と」
「私だと言いたいのか」
「先生、サルトル先生のノートには、同じ一行がページを埋め尽くすほど繰り返し書かれていました。あれは創作ではなく、強迫です」
「ほう」
「彼は誇らしげに見せていましたが、私が訪ねた時、ノートをすぐに閉じて伏せました。何かを隠すような仕草です。サルトル先生は、自分の意思だけで書いている哲学者ではなかった。誰かが、彼の哲学を触媒として街に流し込んでいる」
「……」
「触媒を仕込んだのは、誰でしょう」
カミュは煙草を踏み消した。長い沈黙の後、海を見つめたまま、彼はゆっくりと口を開いた。
「君は、辿り着いた」
事務所のデスクにて、ではなく
通常なら、カワウソは事務所に戻って推理を整理してから真犯人を訪ねる。だが、今回は違った。海辺で、カミュ自身が事件を認め始めた。
「私は、サルトルの「自由の刑」を借りた」
カミュは煙草に火をつけ直した。
「彼の哲学を、触媒として街に拡散させた。皆が選択の重さを実感すれば、不条理を体感できる、と思った」
「動機は」
「皆に、反抗を始めてほしかった。シーシュポスは、岩を押し上げ続ける。意味はない。だが、それでも押し続けることが、反抗だ。皆も、選択の不条理に気づいて、それでも選び続ける反抗者になってほしかった」
カミュはふっと笑った。
「だが、結果は逆だった。皆は固まった。反抗どころか、選ぶことすらできなくなった」
カワウソは深呼吸した。ここからが、推理の核心だった。
「先生、お聞きしてもよろしいですか」
「何でも答えよう」
「先生は反抗せよと説かれます。皆に反抗者になってほしかったとおっしゃる」
「そうだ」
「ですが、街の人々は今、反抗できません。選ぶことすらできない」
「……」
「あなたが奪ったのは、選択ではなく、反抗の主体性そのものです。反抗の哲学者が、皆から反抗の力を奪った。これは、先生の哲学の自己矛盾です」
カミュは長い間、海を見つめていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「君は……正しい」
「先生」
「私は、不条理を伝えるために、不条理に巻き込もうとした。だが、それは矛盾だ。不条理は、伝えられるものではない。各自が自分で気づくしかない」
カミュは立ち上がった。海風が彼の髪を揺らす。
「私は、皆から反抗を奪っていた。それは、シーシュポスの石を、誰かに代わりに押させるようなものだ。意味がない」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。敗北こそ、私が求めていたものだ」
カミュは小さく笑った。皮肉ではなく、解放された笑いだった。
「私は、自分の哲学を疑い続けると言ってきた。だが、最近、自分の哲学を信じすぎていた。君が来て、私を不条理に戻してくれた」
カミュは煙草を踏み消し、海辺から立ち去った。仲間にはならない。だが、彼の足取りは、来た時より軽かった。
その瞬間、街中に変化が起きた。広場では、哲学者たちが動き出した。カフェの店員がメニューを取った。ハイデガーが森から戻ってきた。ディオゲネスが樽を抱えて事務所の前で大あくびをしていた。
そして、サルトルが、書き続けていた手を、ようやく止めた。
サルトルのカフェへ
カワウソは中央広場のカフェに向かった。サルトルは、ノートを閉じて、深く息をついていた。
「カワウソ君」
「先生、お加減は」
「ようやく、書きたくないものを書かずに済む。君のおかげだ」
サルトルは机の上のノートを取り、煙草の火で隅を焦がしてみせた。
「これは私の言葉ではない。強要されて書いた言葉だ。私は、これを保存しない」
「先生、カミュ先生は」
「敗北を選んだ、と聞いた。あの男らしい」
サルトルは新しいページを開いた。今度は、自分の意志で。
「カワウソ君、私の哲学は、誰かに武器として使われた。これは、私の責任でもある。私は、選択の重さを語りすぎた。あれが触媒になりえることを、私は知らなかった」
サルトルは深く頭を下げた。
「君に、私の力を貸そう」
「先生」
「自由の刃を授ける。対立する選択肢の中から、他者の自由を奪わずに一つを選び取る勇気を与える刃だ。これからの調査に、役立てたまえ」
カワウソは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私を救った者には、私の理論を渡すべきだ。それもまた、コミットメントだ」
依頼完了
サルトルは煙草に火をつけた。今度は、ゆっくり、味わうように吸う。一本の煙草を吸い終えるまで、彼は何も書かなかった。
「ところでカワウソ君、君は今回の事件を通じて、何を学んだ」
「実存主義の構造、ですね」
「正確には」
「実存は本質に先立つ。だから、人間は選択することで自分を作る。しかし、選択を強要することは、相手の自由を奪うことになる。自由は、他者の自由を尊重する中でしか成立しない」
「素晴らしい」
サルトルは満足げに頷いた。
「君は、サルトル主義者になりつつある」
「探偵です」
「同じことだ」
ふと、サルトルはカワウソの目を見て付け加えた。
「カワウソ君、カミュはなぜ、私の哲学を触媒として手に入れたのだろうな」
「と、おっしゃると」
「彼は私の本を熱心に読んでいた。だが、ある時から、私の本ではないページが、彼のノートに挟まり始めた、と聞いた。誰かが彼に渡したようだ」
カワウソはペンを止めた。
「誰が」
「分からん」
サルトルは煙を吐いた。窓の外の街並みを、しばらく見つめている。
「気をつけたまえ、カワウソ君」
エピローグ
その夜、カワウソは事務所のデスクで、メモ帳をめくっていた。
仲間:2人(ヘーゲル、サルトル) 学んだ思想:弁証法、実存主義 街角の噂:哲学者たちが「自分が何者か分からない」と問答に巻き込まれているらしい
ふと、メモ帳の最後のページに、また自分でも書いた覚えのない文字があった。
カミュもまた、誰かに唆されたのかもしれない。 街の影で、誰かが哲学者たちを動かしている。 ヘーゲルもサルトルも、その駒だったのかもしれない。
カワウソはメモ帳を閉じた。
窓の外、月が街を照らしている。サルトルがカフェで、ようやくコーヒーを飲んでいた。彼の隣には、ディオゲネスが樽を抱えて座り、ランタンの光で本を読んでいた。本のタイトルは見えなかったが、二人は何やら笑いあっていた。
その向こう、海辺の方角に、ぽつんと一つ、煙草の灯りが見えた。カミュだ。彼は今、海を見つめながら、自分の不条理と向き合っているのだろう。
そして、街の片隅、ある工房の窓越しに、煙草の煙がゆっくりと立ち上っていた。誰かが、夜更けに何かを印刷している。
カワウソは小さく息を吐いた。
明日もまた、フィロソフィー街は、にぎやかな一日になりそうだった。
(第二話 了)